『あなたはわたしを愛するか』

牧師 広瀬 薫

ヨハネの福音書21章15〜19節

新約聖書の中で、最も美しい章の一つと言われるヨハネの福音書の21章。

今日の箇所は、その中でも、最も印象的な部分です。

クリスチャンであるならば、決して忘れることの出来ない、また忘れてはならない部分です。

これを今日ご一緒に味わいます。

イエス・キリストが、ペテロに、「あなたはわたしを愛するか」とお尋ねになる。

しかも三回お尋ねになる。

・・・どうして、こうお尋ねになったのでしょうか。しかもどうして、三回もお尋ねになったのでしょ うか。

皆さんは、ボーイフレンドから、ガールフレンドから、恋人から・・・「あなたは私を愛しているか」 と尋ねられたことがおありでしょうか。

その時に、何とお答えになったでしょうか。

もしも、その相手がイエス様だったら・・・。イエス様から、「あなたはわたしを愛しているか」と尋 ねられたら・・・。

皆様なら、何とお答えになるでしょうか。・・・

そんなことを考えますと、今日の箇所は、大変深く心探られる御言葉なのです。

突き詰めて行くと、私達がクリスチャンであるということは、どういうことなのか。私達はクリス チャンとして、どのようにして生きていくのか・・・といった根本的なことにぶつかっていくと思いま す。

これから、三つのことを考えていきます。

一つ目は、イエス様の問いかけについて。

二つ目は、それに対するペテロの答えについて。

三つ目は、それに対するイエス様の招きについて。・・・順に考えて行きます。

(1)第一に、イエス様の問いかけについて。

ヨハネの福音書21章15節、「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。 「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」

16節、「イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」

17節、「イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛します か。」」

イエス様は、何故このように、しかも重ねて、お尋ねになったのでしょうか。

イエス様が何かをお知りになりたくて、こうお尋ねになったのではありません。イエス様はペテロの心 の中まで全てご存じでした。

そうではなくて、この問いがペテロにとって必要だったから、こうお尋ねになったのです。

ではこの時、ペテロには何が必要だったのでしょうか。

皆さん、この時の、復活の主イエスを囲んでの、弟子達七人の食事の有り様を思い浮かべて頂きたいと 思います。

21章12〜14節を見ますと、復活の主を囲んで、何も語らない弟子達、いえ、一言も言葉の出ない弟子達 が描かれています。

何故でしょうか。

・・・彼らは、イエス様を裏切ってしまったのでした。

一番肝心な時に、イエス様一人を残して逃げたのです。

自分達は選ばれた使徒だと言い、イエス様が王になる時には、誰が右大臣左大臣になるだろうか・・・ などと言って争っていた彼らが、肝心な時に、使命を全部投げ出して、3年間教えられたことを全部捨 てて、自分の弱さ、信仰のはかなさをさらけ出したのです。

その代表格のペテロは、「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずき ません。」(マタイ 26:33 )などと大見得を切っていたのに、何と3度も、自分はイエスを知らない、 と繰り返す始末でした。

どうして今更イエス様に会わせる顔があるでしょうか。

自分達がいままで築いて来たものは、全部コナゴナに壊れたのだと思ったことでしょう。

なるほど彼らはいまだにクリスチャンではあります。信仰まで捨ててしまったわけではありません。復 活のイエス様も、彼らの罪を責めず、いつも最初の御言葉は、「平安があるように」でした。

イエス様は罪を赦して下さる。あくまでも優しい、暖かい、大きくて、慈しみ深いイエス様でした。

しかしそのように優しくされればされるほど、主の大きさを味わえば味わうほど、かえって弟子達は、 自分達の小ささ、無力さ、失敗にまみれた姿を・・・どうしようもない自分達の姿を意識させられたで しょう。

・・・主よ、もう充分です。ここまでして頂けば、もうこの上何を望みうるでしょうか。私達は失格し たのです。使徒の働きは、もう返上すべきでしょう。私達が3年間、あなたから受けた訓練、頂いた教 え、経験、築き上げてきたものは、全て崩れたのです。

けれども、そういう弟子達、その代表格だるペテロに、イエス様はここで問いかけられるわけです。

「なるほど、全てがコナゴナに崩れたかも知れない。しかし、土台はどうだ。土台は残っているか。土 台まで失ったわけではないだろう。・・・」

そしてその土台とは何かというと、主イエス・キリストへの「愛」なのです。

「あなたはわたしを愛しているか。たとえ全てを失っても、主を愛しているならば、そこには神様に とっては充分な土台が残っているのだ。」ということなのです。

その愛の上に、全てが築き直されうるのだということを、あなたは悟れ。・・・これがこの質問の意味 でしょう。

何故、主は3回尋ねられたのでしょうか。

それは、ペテロが3回主を否んだからです。

「あなたは3回わたしを否むことによって、使徒としての働きを放棄し、自分の人生を崩した。しか し、かつて3回の否認によって崩れたものが、今あなたのわたしへの愛の告白が3回なされることに よって、全て立て直されていくのだ。主イエスなど知らない、と3度口にしたあなたは、その同じ口で 今、「私は主イエスを愛している」と3度はっきりと語れ。・・・その愛はあるか。それがないのなら ば、本当に全ては終わりだ。しかしあなたには、何がなくてもその愛はあることを確かめることが出来 るはずだ。・・・」というわけです。

皆さん、この、「私は主イエスを愛しているだろうか。」ということが、私達にとっても究極の問いに なります。皆さんにも、イエス様は、「あなたはわたしを愛しているか。」と問いかけられているのだ と知って下さい。

 

牧師をしておりますと、大変難しく複雑で頭を抱えてしまうような問題や相談にぶつかることがありま すが、そういう時に最後に残る質問は、結局この質問、「私は主イエスを愛するが故にそうするの か。」ということであると思います。

例えば、牧師と信徒とが意見が合わないこともあり得るわけで、極端な場合、牧師から見ると、それは まずい、罪であるとしか思えなくても、信徒はどうしてもそうしたいということもあり得るわけです。 その時、色々と話もし祈りもするのでしょうけれども、そこで残る最後の質問は、「あなたは、主イエ スを愛するが故にそうするのだ、という確信がありますか。」ということだと思います。

そして、その問いに対して、そうだと答え得るのであれば・・・それが、たとえ礼拝を休むということ であれ、たとえ教会を離れるということであっても、私はそれを最大限尊重したいと思っています。

しかし、その問いに対して、そうだと言えないのであれば、私達は更によく祈って、必要ならば悔い改 めて、「私は主を愛するが故にこうするのです。」または「主を愛するが故にこうしないのです。」と 言える道を見出し、選び、進む必要があるのです。

つまり、この質問は、究極のテストになるのです。

また、この質問は、究極の質問であると共に、実際的なテストとして、私達の日常生活の中で用い得る ものでもあります。

例えば、教会では毎朝6時から早天祈祷会をしていますが、疲れている時や寝不足の時には、目があい ても、「ああ起きたくない。」と思うこともあるわけです。

そういう時にいつも心に浮かぶのは、東京基督教学園のM先生が言われていたことなのですが、・・・ 学園にも早天祈祷会がありますが、M先生もお忙しい方ですから、当然、今日は起きたくないとか、起 きられないとか、思うこともあるわけです。そういう時に、心に浮かぶことは何かというと・・・「私 はイエスを愛しているだろうか」という自問の言葉、あるいは、「あなたはわたしを愛しているか」と いう主ご自身の問いかけの御言葉なのだと言われたのです。・・・そのことを私は思い出すわけです。

ある修道院では、この問いが、生活の全てを貫く問いとして掲げられているということも聞いたことが あるのですが、確かにそのように、私達の生活の全ての面で、「私は主イエスを愛している か。」・・・これが大切な問いかけとしてあるわけです。

さて、第二のこととして、この問いかけに対するペテロの答を味わいます。

この箇所は、「愛する」という言葉に、二種類の言葉(アガパオーとフィレオー)が使われているとい うことで知られている所です。

新改訳聖書では、欄外注にそれを記しています。

簡単に言いますと、アガパオーというのは、アガペーの愛で愛する・・・神の愛、一方的に与え尽くす 愛、献身の愛で愛するということです。

フィレオーというのは、友愛・・・これは人間の愛、ギブアンドテイクの愛、受けて与える愛と言われ ます。

そしてこの二つがここでどう使われているかを単純にして言いますと

・・・1回目・・・(イエス様)あなたは私をアガパオーするか。…(ペテロ)フィレオー。

・・・2回目・・・(イエス様)あなたは私をアガパオーするか。…(ペテロ)フィレオー。

・・・3回目・・・(イエス様)あなたは私をフィレオーするか。(つまりペテロに合わせるので す。)…(ペテロ)フィレオー。

ここにペテロの気持ちがとてもよく表れているのではないでしょうか。

イエス様は、私達をアガペーの愛で愛していて下さいます。神の愛、一方的に与え尽くす愛、見返りな しの愛です。

ペテロは、そのイエス様のアガペーの愛を、もうイヤというほど味わって来たのです。

そして今、イエス様が、その同じアガペーの愛であなたはわたしを愛するか、とお尋ねになったわけで すが、それに対してペテロは、「はい、主よ、私もあなたをアガペーの愛、一方的に与え尽くす愛で愛 しています。」・・・と言うことが出来なかったのです。

どうでしょう、皆さんなら、言えるでしょうか。「アガパオー」と答え得るでしょうか。

「言葉にすると嘘になる」という言葉がありますが、ペテロは、ついこの間、「言葉にしたら全部嘘に なった」という苦い体験をしたばかりでした。・・・私は絶対につまずきません。死でも牢でもついて 行きます。・・・全部嘘になりました。

だから今、「アガパオー?」と聞かれて、彼は「アガパオー」と答えられないのです。

ここでペテロは一瞬、言葉を失ったのだと思います。

そして何とか見つけた言葉が、「フィレオー」。

「主よ、私の愛は、あなたの愛に遠く及ばないものでした。それはギブアンドテイクの愛、イエス様か ら沢山の愛を受けて、初めて少しだけお返しできるような、人間の愛でした。」・・・「これが私の精 一杯の姿だったのだなあ・・・」と彼は思ったでしょう。

しかし「フィレオー」と答えるペテロはなお、もう一つの言葉を加えます。

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」・・・「あなたがご存知で す」とは、どういう言葉でしょうか。

「主よ、私の精一杯はこの程度に過ぎない、情けないものかも知れません。しかしとにかく精一杯あな たを愛していることも確かなのです。それをあなたは全てご存じです。私の心の中の隅々まで、全てあ なたはお見通しですから、私はこの心を開いて、精一杯のありのままをあなたにお見せし、その評価は 全てあなたにお任せします。」・・・という思いが、「あなたがご存じです。」という言葉の意味で しょう。

三回目にイエス様が、「フィレオー」を用いられたことについて、作家の三浦綾子さんは、「イエス様 の方がペテロに合わせたのだ。ペテロのいる所までへりくだられたのだ、という意味のことを書いてい ました。

つまりイエス様は、「わかった、ペテロよ。あなたのその精一杯を私は受け入れよう。私はあなたのそ の精一杯で満足した。・・・」と言われたということでしょう。

何とも、ジーンとくるやりとりではないですか。

そして、第三のポイントに進みますが、ペテロの答えに対するイエス様の招きが語られます。

(以下略)


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