『交わりの喜び』

牧師 広瀬 薫

教会では「交わり」という言葉を良く使います。

この言葉、世間ではそれほど使われない言葉です。キリスト教会独特の用語なのでしょう。

では、交わりとは何なのか、…というと、これが案外あやふやなのです。

「教会にもっと交わりが欲しい」とか、「この頃交わりが足りないように思います」とかいう発言は、 どこの教会でも時々聞かれるのだと思いますが、では交わりとは何ですか、と改めて聞かれると、さ て、何でしょう、…とこれが案外答えにくいのです。

それで今日は、この「交わり」ということについて、少々ピリピ人への手紙を手がかりに考えてみたい と思います。

ピリピ人への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれています。

喜べ、喜んでいます、喜び、…という言葉が沢山出てくるので有名です。 「いつも主にあって喜びな さい」とか、 自分は死んでも喜びます、とか、 その時には(つまりパウロが死んだ時には)あなた 方も一緒に喜んで下さい、とか、…本当に驚かされる喜びの言葉がキラ星のように並んでいます。

ここに私達が見るのは、使徒であり伝道者であるパウロと、ピリピ教会との交わりの喜びです。

その交わりとは、具体的にはどういうことであったかというと、(この手紙を読んでわかることは)ピ リピ教会がパウロに献金を送って支援したとか、人を派遣して助けたとか、離れていても心を一つにし て祈り合っているとか、そういう、場所が離れていてもなお実現している主にある関係の麗しさであり まして、それがこの手紙を読んでいると、手に取るようにわかって、「いいなあ…」と思うのです。

私達は今日、礼拝で集まっているわけですが、そして後ほどには聖餐式という、正に主にある一つの交 わりを目に見える形で表現する聖礼典を行おうとしているわけですが、こういうクリスチャン同士の交 わりが、今日の聖書箇所のような交わりの喜びに満たされている、ということを私は心から望んでおり ます。そして、私はそういう交わりを持ってパウロのように喜んでいるだろうか、ということを自らの 反省も含めて自分に問うこともしばしばであります。

例えば、1章3節、「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し」…こういう、私達ク リスチャン同士が、お互いのことを思うごとに「感謝だなあ…」という、そういう交わり。

あるいはまた、4〜5節「あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り」…こ ういう交わりの喜びが私達の間に今日もあるなあ、と実感できれば幸いだと思います。

なぜそう思うかというと、世間でクリスチャン達が他の教会やクリスチャン達の話をするのを耳にする 時に、こういう聖書の世界とは相当違った、批判…ならばまだいいと思うのですが、競争意識とか、自 己中心の思いとか、高ぶりの思い・自己卑下の思い、嫉妬…そんなことを感じることもしばしばである からです。

今日は、私自身ピリピ人への手紙を味わう中で教えられたことを、皆さんと分かち合わせて頂きたいと 思います。

それは、どういうことかと言いますと、この手紙を読んで行くと、今、パウロはローマの牢獄に軟禁状 態になって裁判を受けているのですが、そのパウロを取り巻く色々な状況が見えてくるわけです。それ が、実に生々しい、と言いますか、人間的だ、と言いますか…パウロは決して理想的な世界・思弁の世 界に生きていたのではなくて、生の現実の世界に生きながらこの喜びの手紙を書いている、ということ がよくわかるわけです。

特に今日はクリスチャン同士の「交わり」という点にテーマを絞って考えたいわけですが、教会の内部 に、あるいは教会間に、実に生々しい現実があったことが見えてきてしまうのです。

その代表的な例を、簡単に、各章から一つずつ拾ってみますと、

@まず、1章15〜17 節、「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいます …純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私を さらに苦しめるつもりなのです。」…ここには、何と、クリスチャン仲間から苦しめられているパウ ロがいるではないですか。

喜びの手紙の中に、苦しめられるパウロが出て来るのです。

A次に2章では、20〜21節、「…だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスの ことを求めてはいません。」

…これはものすごい言葉ではないでしょうか。一体誰のことを言っているのでしょうか。

私は、以前、これは未信者のことを言っているのだと思っていました。しかし、前後をよく読むと、実 はこれはパウロを取り巻くクリスチャン仲間のことを言っていたのです。

彼らは余りに自己中心的だ、とパウロは嘆いていたわけです。 喜びの手紙の中に、嘆くパウロが出て きます。

パウロ自身は、今ローマにいるわけですが、獄中生活ですから、「誰か、ピリピ教会へ行って来てくれ ないか」と頼んだのでしょう。

そうしたら、何と皆、「いやだ」と言ったのです。

何と誰もピリピ教会のことなど心配していない。何と皆、自分自身のことを求めるばかりではないか。

ローマ人への手紙を読みますと、最後の所に、何十人というローマ在住のクリスチャン達のリストが出 てきます。あの人達はこの時どうしてしまったのでしょうか。ローマブロックの牧師達、信徒達は、こ の時何を話し合ったのでしょうか。誰も、パウロと心を合わせ、ピリピ教会のことを思わなかったので しょうか。

喜びの手紙の中で、パウロは嘆いています。

B次に、3章。18 〜19節、「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙を もって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最 後は滅びです。…」

…ここではパウロは、十字架の敵として歩む、教会内の偽教師達とその一派の存在に言及し、そして彼 らのために涙を流しています。

ここには、喜びの手紙の中で、何と、泣くパウロが出てくるではないですか。 皆さん、この喜びの手 紙には、実はパウロの涙のあとが点々とついていた、…そういう手紙だったのでした。

C最後に、4章。2節、「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって 一致してください。」

…ここには、いわゆる、ユウオデヤ・スントケ問題、つまり、教会内のご婦人同士の個人的対立があり ます。

そしてそれに対して、一致して下さい、と懇願するパウロの姿があります。 ここには、喜びの手紙の 中で、問題解決のために懇願するパウロがいたのです。

以上、この喜びの手紙の中には、私にとっては意外なことでしたが、クリスチャン仲間のために、苦し められているパウロ、嘆いているパウロ、涙を流しているパウロ、懇願しているパウロがいたのでし た。 そしてその一つ一つに対して、パウロは、喜びの教えを組み合わせて教えようとしているのでし た。

ピリピ人への手紙は確かに喜びの手紙ですが、この喜びの言葉の数々は、決してきれい事や理想論では なくて、こういう、涙なしには語れないような、生々しい現実や、不条理な仕打ちを受ける中から生み 出された、…そういう喜びの言葉であったのです。

そして考えてみれば(先程私は、これは私にとって意外なことでしたが、と申し上げましたが)、これ は少しも意外なことではない。

今現実に私達が出会うクリスチャンの姿、教会の姿、そして私自身の姿を見ると、人間というものは実 に聖書が描いている通り、今も昔も変わらない、ということに気づくわけです。

パウロが今の日本・世界のキリスト教会、一つ一つの教会、そして広瀬薫という牧師を見たとすると、 やはり、同じように、苦しみ、嘆き、涙し、懇願するのではないか、いや、パウロが見たら、などと言 う必要はないのでして、私達自身が、現実の中で、苦しみ、嘆き、涙し、懇願しているのであります。 私達が体験する現実と、パウロがかつて体験していた現実は、同じではないか、と気付かされるわけで す。

では、そのような現実の中で、パウロは何故喜んでいたのか。特に、交わりということをどのように考 え、受け止めていたのか。

それを伺い知る手がかりの一つは、この手紙の中に5回出てくる「交わり」と普通訳される「コイノニ ア」という言葉です。

さて、普通、私達が教会で交わり、コイノニア、と言うと、何を意味しているのでしょうか。

私が大学生の時、初めて教会へ行った頃、ある、やはり大学生の姉妹から、「私と交わって行きません か」と言われて、実に奇妙な気持ちになった思い出がありますが、その後しばらくして、交わりとは、 一緒にお茶を飲んだり、お菓子を食べたり、食事をしたり、楽しく語り合い、時にはソフトボール、餅 つき、ハイキング、と、要するに一緒に楽しく過ごすことだと、…それでわかったつもりでいたわけで す。

けれども、このピリピ人への手紙の中に出てくる、交わり、コイノニア、という言葉を拾って行くと、 どうも大分雰囲気が違うのです。…どこに出てくるのか。簡単に拾いますと、…

@1章5節、「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たこと を感謝しています。」

…この「あずかって来た」が交わり・コイノニアなのです。

A1章7節、「…あなたがたはみな、私が投獄されているときも、福音を弁明し立証していると きも、私とともに恵みにあずかった人々であり…」

…この、「私とともに恵みにあずかった」が交わり・コイノニアです。

B2章1節、「…もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、 愛情とあわれみがあるなら」

C3章10節、「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも 知って、キリストの死と同じ状態になり」

…この「あずかる」が交わり・コイノニアです。

D4章14節、「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」

…この「分け合う」がコイノニアです。

どうも、交わりとは、一緒に楽しむばかりではなかった。一緒にお茶を飲む、とか、お話をする、とい うことではなかった。パウロは決してハイキングをしたり、ソフトボールをしていたのではなかった。

…ここに出てくるのは、一緒に福音宣教をする恵みにあずかる、とか、キリストの苦しみにあずかる、 とか、お互いの困難を担い合う、とか、御霊の霊的な交わり、とか、パウロが言っている交わりという のは、そんなニュアンスがあるようで、普段教会でイメージする交わりとは大分様子が違うようです。

パウロが交わりとして受け止めていたのは、こういう世界だったのか、と教えられました。

そして、私達が「交わり」という言葉を使う時には、こういう意味で使いたいなあ、と思いました。

教会にもっと交わりがほしい、と言う時に、その意味するところが、一緒に福音宣教をする恵みにあず かるとか、一緒にキリストの苦しみにあずかるとか、お互いの困難を担い合うとか、御霊の霊的な交わ りとか、そういうことをもって、私達には主にあって交わりがある、という言葉を使いたいなあ、と思 うのです。

つまりまとめますと、パウロは、この手紙を書いている時、どういう体験をしていたかというと、教会 の外側から来る問題や、自分の裁判の問題ばかりではなくて、教会の内側にも、色々な困難、問題、苦 しみ、人間関係のこじれ、人間の醜さの現れ、…そういうものを味わっていたわけです。

(1)その中で、まず第一に、同じ主に救われ、同じ福音宣教の使命を担い、同じ天の御国を目指すク リスチャン仲間との交わり、つまり、地上における神の家族・天国人仲間を主が備えて下さっていて、 共に助け合い、苦しみを担い合いして、主の御業が前進していくのを味わって喜んでいた。…これが何 者にも奪われない主にある喜びだ、ということをしっかりとつかんでいたのです。

私達は自分がクリスチャンであることが全てではない、自分の教会が全てではない、こういう交わりが あるのだ、ということは、クリスチャンでなければ体験できない、素晴らしい世界があるのです。

(2)そして第二に、その主にある交わり、ということを考えていく時に、弱い仲間もいる(あるいは 自分がまさにその弱さを露呈しているのかも知れないのですが)、自己中心のクリスチャンもいる、お 互いに仲の悪い人もいる、そういう人達も皆この主にある交わりの中にある人達だ、と、パウロは受け 止め、受け入れ、その存在を喜んでいる、ということにも大変教えられました。

もちろん、偽物は排除されています。けれども、クリスチャンであって弱い人達、欠けの多い教会、い ざという時に動こうとしないローマの指導者達、自己中心のクリスチャン達…それは捨てられるのでは なくて、また、諦められて見て見ぬ振りをされるのではなくて、むしろ、そういう人達と、そういう教 会と、困難を担い合って行こう、助け合って行こう、主にある交わりとはそういうものだ、キリストも そのようにして苦しみを担われたのだ、という、パウロが交わりというものをそんな風に考えていたの ではないかなあ、ということが見えて来るように思います。

(3)そして第三に思うのは、そういう交わりというのは、実は、私達の持っているこの世の常識とも 普通の感情とも違うわけです。

この世の集まりであれば、利益や好感が人を結び付けているのであって、逆に言えばそれがなくなれば 人間関係もバラバラに解体して当然なのでしょうが、しかしこの手紙に描かれている主にある交わりは 違う。

そして、そういう主にある交わりの中でこそ味わわれるのが、この喜びの手紙が教えている喜びなので はないか、ということです。

それが、どんな状況にあっても決して失われない、主にある喜びの体験、…常識ではない、感情ではな い、これが主が教会という信仰共同体・キリストの体の中に生きる私達に味わわせようとしておられる 喜びなのだ、とパウロは味わい知っていたのだと思います。

この喜びの手紙にあふれている喜びというのは、そういう主にある交わりの、広さ・深さ・奥行きを 持った交わりの喜びであった。それが本当の「交わりの喜び」なのでしょう。

今日の聖書箇所の、1章6節、「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエ スの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」

…パウロがこう言えるのは、どうしてなのでしょうか。

1章7節で、「あなた方全て」とか、「あなた方は皆」と言われているのは誰なのでしょうか。この 中には当然、ユウオデヤもスントケも入っているわけでしょう。

そういう、欠け多き人間同士が、主にあって宣教のために、という所で一致して困難を担い合った、… その意味で同じ恵みを共有してきた、だから、そういう交わりの中にこそ、主の御業は完成するのだ、 というのが、1章6節の意味する所だと思います。

願わくは、私は、教会で、あるいはブロックで、あるいは教団で、このような交わりの喜びを体験させ て頂きたい。

すでに体験させて頂いて来た、ということが出来て感謝でもありますが、更にそのような、私であり、 私達であり、教会であり、教会の集まりでありたい。

1章6節のように、主が始めて下さった良き御業の完成を、この交わりが担っている、という交わりを 生きて行きたい、…そう願っております。


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