『恵みの中にしっかりと立て』

牧師 広瀬 薫

 今日は「恵みを証しする礼拝」です。

 今年は暑い毎日の続く夏でしたが、ようやく秋の訪れを覚えるこの9月の初めに、夏を振り返りまし て、多くの方々にとって普段とは違った経験が(例えば、旅行・キャンプ・帰省・…)色々あったわけ で、今日はそれぞれが受けた神様のお取り扱い・み恵み・教えられたことを確かめ、分かち合い、喜び 合い、励まし合って、これからの歩みにまた新たな心備えを致したいと思います。

 今日のみことばの箇所でも、ペテロが恵みを証ししていました。「私の認めている忠実な兄弟 シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあ かししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。」(ペテロの手紙第一五章12節)

 これを見ると、このペテロの手紙全体が「恵みを証しする手紙」であったと言うことができるようで す。今日はまずペテロの「恵みの証し」をご一緒に味わって、神様の恵みを確かめて、そして「この恵 みの中に、しっかりと立っていなさい」という、その勧めを文字どおり「しっかりと」自分のものとし て、これからの秋の歩みの備えとしたいと思うわけです。

 私自身の夏を振り返ってみますと、何しろ多磨教会一年目の夏ですから、どれもこれも新鮮で、恵み だなあと思うことは色々とあるのですが、一つ真っ先に思いつきますことは、七月一日から正式に始め ました毎朝六時からの早天祈祷会が、何と一日も欠かすことなく続けられたということです。

 毎朝百草の開拓伝道(めぐみ教会)のために、牧会委員会で設けて下さった「祈りの箱」に提出され る祈祷課題のために、そして「祈りのとも」の毎日の祈祷課題に従って祈り続けることができました。

 これは実は奇跡のようなことであります。何故かというと、私は(自慢するわけではありませんが) 神学校時代にさえも、こんなに欠かさずに早天祈祷会を続け得たことなど一度も無かったからです。

 これはもちろん自慢どころか大変みっともないことなのですが、とにかくダメでした。そして神学校 の先生が言われるには、「神学校でできないことは、教会に行ってもできない」…これは相当当たって いる言葉だとは思います。

 ところが、七月から開拓が始まるとか、他にも幾つかの要因が重なって、これは毎日祈らずには一歩 も進めないのではないかと思わされまして、「強いられた恵み」のようにして始めたところが、祈りの お仲間も加えられまして一日も欠かさず続くというのは、これは奇跡的なこと・自分ではできないただ 神様のみ恵みによることです。いわばあのペテロが、できないはずの水の上を歩いたというようなもの です。(ペテロのようにいつ沈みだすか、と思いつつ神様をほめたたえているのです)

 私達が、毎朝聖書を読めないとか、祈りが続かないとかいうのは当然のことでありまして、人間が頑 張ったところでそう簡単にできるものではないのだと思います。しかし本当に必要な時には神様が力を 与えて祈らせて下さる。それは私達自身の力ではなくて、百パーセント神様の恵みによることだと実感 して感謝しています。

 しかし皆さんの中には、「私にはこの夏神様のみ恵みと言えることなどありませんでした」とおっ しゃる方もあるかも知れません。

 けれども今日考えたいことは、聖書がここで言う恵みとは何なのか、ということです。もしも、調子 の良いことだけが恵みであって、嫌なことは恵みではないと言うのならば、皆さん、ペテロはこの時、 そんな意味での恵みからは最も遠い所にいたのではないでしょうか。

 何故ならば、このペテロの手紙は、厳しい迫害下のクリスチャンに向けて書かれたものだからです。 (五章8〜9節、四章12節参照、ペテロの手紙は、私達が苦しみの中にある時に読むと、大変慰めら れ、励まされる書です。私は足の手術の前の日に、これを読んでとても力付けられました)

 では迫害の中で、ペテロの言う「神の恵み」とは何か、「この恵みの中に、しっかりと立っていなさ い」と言う「この恵み」とは何なのか。今日は、ペテロがこの手紙の中で「恵み」について語っている 箇所から三カ所を選んで、ペテロが味わっていた恵み(それが聖書が教える本当の恵みでしょう)につ いて教えられたいと思います。

(1)まず、五章 節、「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠 の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅 く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」

 ここには、すでに私達が頂いた、確定した過去の恵みの実体験が記されています。「あらゆる恵み」 特にその中でも「あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった」という 「すでに」確定した恵みのことを考えてみなさいと勧められているわけです。

 この「すでに」味わっている、ということについては、二章3節でも教えられており、またその目的 も、二章9節に、素晴らしい神様を「宣べ伝えるため」だと教えられています。ですからペテロはこう して宣べ伝える。私達も宣べ伝える。今日も恵みを証しする。府中でも百草でも宣べ伝える、というわ けです。そのために、恵みは「すでに」与えられており、神様は必ず完成まで導いて下さるのだ、とい うのが五章の意味です。つまり、すでに恵みのレールの上に乗せられたのだから、必ず恵みのゴールに まで至るのだということなのです。

(2)次に第二は、四章10節、「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い 管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

 ここに出てくるのは、現在私達が神様から頂き、管理者としてお預かりしている様々な恵みのことで す。これについて三つの面を考えたいのですが、

 @一つは、ここに私達の使命が教えられているということです。(10 〜11節)恵みは頂いて、ああ良 かったで終わりではありません。ここにはその恵みを用いて、

一、互いに仕え合え、

二、神の言葉にふさわしく語れ、

三、奉仕せよ、と教えられています。

そしてその全ては神の栄光のためだと続いています。

 これが私達の大切な旗印の一つ、ソリデオグロリア(ただ神に栄光あれ)です。 (…「それでもグ ロリア?」ではなくてソリデオグロリアですからご注意を)

 A二つ目は、三章7節、「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だというこ とをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。」

 ここでは、恵みは一人で受けるのではなく、共に恵みを受ける仲間の広がりがあるのだということを 教えられます。各人が受けた恵みは互いに対して無関係なのではない、ということが、一心同体の妻と の夫婦関係から始めて、「いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬」すべきクリスチャン全体の広 がりに目を向けることとして教えられています。

 B三つ目は、二章19〜20節(聖書をご覧下さい。このどこに「恵み」があるでしょう?)。

 ここには一見「不当な苦しみ」とか「悲しみをこらえる」などと、私達の常識からすると、恵みとは 無縁の言葉が並んでいます。しかし 節と 節の終わりにそれぞれある「神に喜ばれる」という言葉は、 原語では「恵み」という言葉なのです。

 これは考えてみますと驚くべき事ですが、厳しい迫害の下にあった彼らが、不当な苦しみを受け、悲 しみをこらえていた彼らが、ここに「恵み」という言葉を使った。…「これは神の恵みだ」「我々は今 神の恵みの直中にいるのだ」と確かめあった。ここに、聖書の教える恵み、私達の常識を越える恵み、 ペテロの恵み観の真髄があるのではないでしょうか。

 以上で過去の恵み・現在の恵み、と見て来ましたが、ではこれからはどうなるのでしょうか。ただい つまでも今の状態を忍んで行くのでしょうか、というと、そうではない。

(3)第三番目の恵みの箇所は、一章13節、「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イ エス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

 ここに、再臨の時、現される恵み、つまり未来の恵みへの確かな希望が教えられています。

 以上第一に、すでに、第二に、今、第三に、やがて完成する恵み、というように、ペテロは私達の人 生を貫き通して進む恵みのご計画、いわば恵みのレールの存在を描いて見せていたわけです。

 この迫害下の手紙は、例えば「お互い大変ですねー」といった言葉では始まりません。まず賛美、そ して喜びを述べる、つまり神様の恵みを徹底的に確かめ、とことん味わうという所に出発点が置かれて いるのです。

 このことが私達の信仰でも大切なことだと思います。私達が忘れがちなことだと思います。

 まず現実の困難を見よう、ではなく、まず恵みの確認、過去の恵み・今の恵み・未来の恵みの完成。 聖書はその恵みの確かなレールに私達の目を向けさせたいのです。そしてそれを私達が互いに共有し、 互いの幸いを確かめることを教えているのです。


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