『喜びの知らせ』

牧師 広瀬 薫

ルカの福音書2章8〜20節

今日はめぐみ教会がスタートする第一日目です。この記念すべき日にここにお集りになった皆様を心から歓迎致 します。神様も私達を歓迎していて下さると信じて感謝致します。

教会の皆で名前を考えました。さんざん頭を悩ませた末「めぐみ教会」と名付けました。

「めぐみ」というのは、聖書の教えることの大切な中心の一つです。その意味は、神様は無条件で私達を大切に 愛して下さり、一番良いものを下さるということです。

さて今日は、このめぐみ教会の初めということで、聖書の中から、イエス・キリスト様のご生涯の初めを記録し た箇所を開くことにしました。

イエス様のご生涯の初めとはいつでしょうか?

クリスマスです。

この暑い夏に何でクリスマスかと思われるかも知れませんが、クリスマスというのはイエス様のご生涯の始まり で、そこに、イエス様とはどういうお方なのか、キリスト教とはどういうものなのか、あるいはこの百草の地に 教会の集まりがスタートするとはどういうことなのか、そういうことがよく表わされているわけです。

このルカの福音書の箇所から、今日は三つのことを知って頂きたいと思います。

まず、2章八〜十節、「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守ってい た。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知 らせに来たのです。…」

第一に知って頂きたいことは、イエス・キリスト様についての知らせは、すばらしい喜びの知らせであるという ことです。

では何故すばらしい喜びの知らせなのか、ということを考えたいのですが、その前に二三のことを見ておきま しょう。

一つは、この時この知らせを受けた人々(羊飼い達)はどう思ったのかということです。

素晴しい、と言って喜んだのかというと、(後には喜んだのですが)初めは「ひどく恐れた」とありま す。

最近、宗教を語りながら実はとんでもないことをしていたらしいという大事件がありましたが、もしか すると皆様は、「宗教とは怖いものだ」と思い込んではいないでしょうか。

しかしここで聖書は、イエス・キリスト様についての知らせというものは、「恐れることはない」「素 晴しい喜びの知らせなのです」と言います。

この素晴しさがわからない内は、私達は恐れるのかも知れない。キリスト教で大丈夫かしらと思うのか もしれない。

しかし、聖書を少しずつ読んでわかって頂ければ、「確かにこれは素晴しい喜びの知らせだ」と納得し て頂けるでしょう。

もしこれがウソであるのなら、キリスト教は二千年も続いてきたはずがないのです。確かに素晴しい喜 びの知らせだから、世界中の人々に広がって行ったのです。

二つ目のことは、この知らせは、「この民全体のためのものだ」と書いてあることです。

つまり、皆のためのものだということです。

ここには一切の差別はありません。上下関係はありません。

教祖が儲けて信者が苦しむなどということはありません。皆一人一人が神様によって生かされる素晴し い人生を頂くことができるのです。

三つ目は、それと関係することです。この喜びが皆のものであるならば、私達はどうすべきでしょう か?

知らせるべきでしょう。だから十節で御使いは「知らせに来た」と言っているのです。

もしも自分だけのものならば、一人で喜んでいればよいでしょう。

一部の人だけのものならば、その人達にだけ知らせればよいでしょう。

しかし「民全体」のためのものですから、皆に知らせなければなりません。

だから私達はこうして、この百草の地にも、この素晴しい喜びの知らせを知らせに来たのです。

この近辺には教会がありません。この喜びの知らせをまだ知らない方々が多いでしょう。だから知らせ に来た、これがクリスマス以来全世界に広がってきたのです。

以上第一に知って頂きたいことは、素晴しい喜びの知らせということです。

第二に知って頂きたいことは、この喜びの知らせの内容です。

十一節に、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この 方こそ主キリストです。」とあります。

知らせの内容は何でしょうか?

まず、「きょう」とあります。

「きょう」とはいつのことでしょうか?

クリスマスの日です。そして私達にとっては正に「きょう」なのです。

つまりイエス様についての知らせを受けた日が「きょう」です。聖書の教える神様は、「明日救ってや ろう」とか「もっと成長して立派になったら」とかおっしゃいません。

「きょう」救って下さる、ということは、今のありのままの私達を受け入れて下さり、祈りに答えて下 さるのです。

次に、「あなたがたのために」とあります。

「あなたがた」とは誰のことですか? 私達のことです。

先程も全ての人のためということを申し上げましたが、しかし私達は、聖書は良い教えだから皆は信じ たらよいけれども私は関係ないと思ってはいないでしょうか。宗教は弱い人達のため・女子供のための ものと間違っておられる方もありますが、けれども聖書は、これは正にあなたのためだ、言っているの です。

そして更に、「救い主がお生まれになりました」とあります。

「きょう」「あなたがたのために」必要なものは何でしょうか?

ある方は、お金が必要ですとおっしゃる、ある方は、健康とおっしゃり、ある方は、家族が円満に愛で 結ばれれば他に何もいりませんとおっしゃる。

聖書は、もちろんそういう一つ一つが私達に大切だと知っていますが、同時にそういうことはいわば上 辺のことであって、その根っこに一番大切な一つのことがあると言っています。

それは何かと言いますと、私達と神様が結び付くということなのです。

何故かといいますと、そういうお金とか健康とか愛とかいう全て良きものは神様から私達の所に来るの ですが、神様と私達のつながりが切れていると、それが来ないからです。

そして覚えて頂きたい大切なことは、この、神様と私達

のつながりが切れているのをまたつないで下さるのが救い主イエス・キリストなのだということです。 救い主とは、私達と神様とをつないで下さって、全て良きものが来るようにして下さる方なのです。だ から喜びの知らせなのです。

「きょう」「あなたがたのために」「救い主が」これが素晴しい喜びの知らせの内容でした。

第三のことは、ではこの知らせを聞いた人達はどうしたのか、ということです。

十五節から、「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。 『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』そ して急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。それ を見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。」

まず彼らは、「さあ、行ってみよう」と言いました。

実はクリスマスの出来事全体を見ますと、イエス様誕生の知らせを聞いた時に、さあ行ってみよう、と 出かけた人々と、ちっとも行こうとしない人々と、二種類いたことがわかります。

行ってみなければイエス様には出会えません。知らせが本当かどうかわかりません。

ですから、私達もぜひ行ってみることが大切です。

私達で言えば、この集まりに毎週土曜に来てみる。もちろん忙しかったり色々と事情はおありでしょ う、しかし出来るだけ(神様は無理にでもとはおっしゃいませんが)行ってみるということをお考え頂 きたいのです。

次に彼らは、「捜し当てた」とあります。

簡単に見つかったとは思いません。

あちこちに捜し、尋ね、求めた結果でしょう。

聖書は、「求めなさい。そうすれば与えられます」と約束しています。一つの道を求め続けるには、努 力も忍耐も必要でしょうが、ぜひ捜し当てるまで求め続けて頂きたいのです。

そして更に、彼らは知らせた、と記されています。

自分達の喜びを周りの人達にも伝えたのです。

そして最後は二十節、「羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったの で、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」

なるほど、素晴しい喜びの知らせだった、全てみことばの通りだった、素晴しい、素晴しい、と言いな がら喜んで帰って行ったのでした。

 以上、第一に、素晴しい喜びの知らせ、

第二に、その内容(今日、私達のために、救い主が)、

第三に、その知らせを聞いた人々が、行って探し当てて、知らせて、喜んで帰って行ったということを 見ました。

私達も、ここでイエス様からの喜びを頂いて、喜びにあふれて帰って行く。そんな集まりを毎週この場 で重ねていけたら、ということを願っています。お祈り致します。


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