『最後の晩餐の席上で』

牧師 広瀬 薫

ヨハネの福音書13章21〜30節

礼拝で味わって来ましたヨハネの福音書は、いわゆる「最後の晩餐」の場面に入りました。

ところで、聖書の中では、この「共に食事をする」ということが重要な意味を持っています。実はそれ が、礼拝堂に「聖餐卓」が置いてある理由なのです。

聖餐卓とは何でしょうか?

これは聖餐式の用品を置く単なる台なのではありません。

これは私達が主と共に囲む食卓なのです。

私達が毎週行う礼拝の大切な意味の一つとして、礼拝とは、イエス様に招かれて共に食事の席に着くと いうことがあります。

ですから、聖餐卓は小さいとしても、また皆さんは聖餐卓から離れた椅子にお座りになっているとして も、心の中では、ここに目には見えなくてもイエス様がテーブルに着いておられ、私達は招かれてここ に一緒に一つのテーブルを囲んでいるのだという意識を持って頂きたいと思います。

では何を食べるのですか?

何も置いてないのに…と思われるでしょうか。

…もちろんここで私達が受けるのは、霊的な糧、みことばの養い、「ぶどうの木」であるイエス様から 「ぶどうの枝」である私達は命の供給をここで頂くのです。

聖餐式はその霊的な養いを目に見える形で味わうものですが、たとえ今日聖餐式がなくても、その霊的 な養いは、私達はここでイエス様の御手からしっかりと頂かなくてはなりません。

さて、その主のテーブルを囲んでの大切な最後の晩餐の席上、今や遺言のような教えが始まるというそ の直前でした。一つの暗い出来事が起きます。それがユダの裏切りです。

21節が裏切りの予告です。ユダが裏切ろうとしている。イエス様はそれをご存じである。しかし他の 弟子達は誰も知らない、という場面です。

22節、弟子達は動揺しました。誰のことだ?!

さて23〜26節の状況を理解するためには、当時の食事の仕方を知って頂く必要があります。

当時は食事の時、皆体の左側を下にして横になってテーブルを囲むのです。

この時食卓の中心となるご主人はイエス様でした。

その右隣はヨハネでした。

するとどうなるかというと、ヨハネの頭はイエス様の丁度胸の所に来るわけです。

そのことが23節の欄外の注に記されていることの意味です。

「弟子の一人(ヨハネ)…が、イエスの右側で(御胸のそばで)体を横にしていた」

さて、この右隣という席は、当時主人の次の次の席、つまり第二の上座であったと言われます。

では、第一の上座には誰がいたのだろうかということが考えられてきました。

それは弟子の筆頭格のペテロでしょうか、というと、24節を見るとどうもペテロはイエス様から離れ た席にいたらしい。

そして25〜26節を見ると、ユダはイエス様のすぐ近くにいたのですが、それはどこかというと(右 側はヨハネですから)左隣の第一の上座ではないか!と言われるのです。

実際、26節のパン切れを渡すという行為は、食卓の主人が、まず第一の客に対してなすマナーであっ たと言われるのです。

つまりどうも、ユダが第一の上座に着いて、最上の客扱いされていたらしい。

これは何を意味していたかというと、イエス様がユダに、最後の最後まで、最高の愛を与え続けたとい うことでしょう。

イエス様はユダの裏切りをご存じでしたが、名前を伏せて警告しつつ、他の弟子と同様以上に大切に扱 い、愛を示し続けた。

だから他の弟子達は、ユダが裏切り者だと遂に気付かなかったのでしょう。

こうしてイエス様が最後までユダを大切にしたことに、私達は、ユダに神の愛に気付いて欲しい、悔い 改めて欲しいと願うイエス様の愛の招きを見るのです。

しかしユダ自身は遂にその招きに応えませんでした。

27〜30節で彼は出て行きます。

これは、心の扉を叩くイエス様ではなくて、サタンの方を選んで扉を開け、心の中に迎かえ入れてし まったということを表わす聖書的な表現です。

裏切りの責任は神様にあるのではありません。むしろイエス様は最後まで心の扉を叩き続けて下さった のです。

30節で、ユダが出て行った外について、

「すでに夜であった」

と聖書が記すのは極めて象徴的です。

ユダは外の闇の中へと出て行った。何かその暗さ、救いのない世界の暗黒がヒシヒシと迫るような場面 です。ユダは今、イエス様のみもとから外へ、光のもとから闇の中へ、救いの主イエス様のみもとから 永遠の闇の人生へと出て行ったのです。

私達はえてして、ユダの魂はどうなるのだろうか、神様は彼を何とかしてくれないのかと考えがちです が、しかしむしろ私達が考えるべきことは、自分自身の魂の行方です。私自身がイエス様を選ぶか、サ タンを選ぶか、そのどちらに心を開くのかということです。

今日の箇所で聖書は一つの対照を私達に見せています。

それは、私達は今どこにいるのか、そしてどこへ行くのかということです。

今日の箇所、一方で、イエス様の御胸のそばに身を置くヨハネ、そして他方で外の暗闇へと出て行くユ ダ。

私達は、イエス様の御胸と外の闇と、どちらを選ぶのでしょうか。

私達は今日、イエス様の暖かい愛に満ちたふところへ、その光のもとへ、その神様との親しい交わりの 場に身を置きましょう。

それは、この聖餐卓を囲む、主と共なる食事の席です。

この場にイエス様の暖かいふところがあり、イエス様の愛があります。

ここでイエス様は全てを差し出して下さっておられるのです。そこに招かれている私達は、それを素直 に受け取るべきです。

イエス様がクリスマスに来られたということは、私達に神様のふところが開かれた、愛が開かれた、光 が親しく差し出された、神様への道が開かれ、主と共に食事をする場へと招かれたということです。

私達は今どこにいて、どこに行こうとしているのか。私達は、イエス様のふところの中に身を置き、更 に奥深くその暖かさの中へと入り込むことを願います。


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