天皇の葬儀と即位に関するわたしたちの見解とあり方


JEA会員各位               1988年12月20日

 1988年9月19日に「天皇の病篤し」という報道がなされてより、天皇の葬儀と即位のことが論じられるようになりました。天皇が生きておられるのに、このような議論をすることは不謹慎であるというご意見もないわけではありませんが、いざそのときになって何の心の準備もないというのでは余りにもクリスチャンとして無責任であることも事実で、あらかじめ心の準備をしておく必要から、このことについての見解をあらためて出すことにしました。

 新憲法が施行されて以来初めてのことであり、どのようにそれが行われるのかということは推測の域を出ませんが、単なる推測ではなく、大いにありうることを想定して考えていく必要があると思います。現憲法においては、天皇は、元首ではなく、象徴であると明記されております。ところが天皇が象徴であることについて、これを元首と同じように解釈できるということについても国会で政府高官が述べているところであり、さらに外務省は天皇を明らかに元首と訳して諸外国に提示しているという事実などを考え合わせると、天皇の葬儀、即位の式を国家行事として、国民に強制する可能性は決して少なくありません。そのことは、戦後の新憲法で行われた二つの信教の自由に関する裁判において見られる最高裁判所の判決に伺うことができます。これらのこと(津地鎮祭訴訟と自衛官合祀拒否訴訟)は、新憲法の根底にある基本的人権に対する正しい認識が欠如していることを物語っております。したがって、わたしたちが警戒しなければならないことは、憲法の本当の精神が生かされるような考え方を持っている人は、ごく少数であって、政府高官をはじめ多くの日本人は、慣習・習俗という名の下に、戦前に行われてきたことを何の疑いもなしに容認するということです。

 ところで具体的なことを見ていきたいと思いますが、天皇の葬儀と即位は、皇室典範に従って行われると思います。この皇室典範は、旧憲法下でつくられたものですから、それ自体極めて神道的要素の強いものであり、古事記、日本書紀に記されている神話に基ずいた異教的色彩の濃いものです。皇室神道によりますと、亡くなった天皇の霊は、権殿に一時安置され、のちに皇霊殿に移されます。体は山陵に葬られます。そして皇霊殿に住むと言われる天皇の諸霊(代々の天皇の霊)が新天皇に霊力を及ぼすというのです。死者の霊が現世の人に霊力を与えるという教えは、少なくとも聖書の教えとは違います。

 天皇が亡くなりますと、約一年間大喪の期間というのがありますが、その行事の中で、特に重要なのは斂葬(本葬)です。大正天皇の場合は、亡くなってから45日目がその日に当たりました。その時、全国各地で時間を合わせて礼拝行為としての遥拝が強制されました。けれども、これは明らかに偶像礼拝であり、もしもこの度このようなことが国から強制された場合、わたしたちはクリスチャンして断固拒むべきです。これは、憲法20条2項に次のように明記されているところであり、憲法が保証している信教の自由でもあるからです。「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」

 大喪が終わり、翌年の一年間は、次の天皇の即位大礼が行われます。即位大礼は、2月の斎田点定(大嘗祭に使う稲の栽培田の選定)に始まりますが、その頂点が大嘗祭と呼ばれるものです。これは日本古来の即位礼とともに11月に行われるもので、天皇一代一度かぎりの新嘗祭でもあります。その中心は悠紀殿、主基殿で行われる神餞親供の儀です。その所において天皇は神座に休む皇祖天照大神と一体になり、斎田から献穀された新穀を皇祖神に供え、自らも食されます。ここに天皇が神としての霊統を受け継ぐという神話的、宗教的儀式が行われます。

 以上のことから分かるように、天皇の葬儀、即位は神道を抜きにしてはありません。これを国家行事として行う場合、政教分離の原則が踏みにじられてしまうのは当然です。津訴訟における最高裁判所判決のように、国民の慣習・習俗とみなして、国家行事として行われる時、わたしたちクリスチャンは、これに対して断固反対しなければなりません。

 わたしたちは、天皇の死に伴う哀悼、新天皇の即位に伴う歓喜の表現を、クリスチャンとしての立場から表現すればよいのであって、国家の強制に従うべきではありません。これはまた新憲法が保証している「思想及び良心の自由」(19条)、「信教の自由」(20条)でもあります。

日本福音同盟(JEA)



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