「二千年に沖縄で開催される予定の日本伝道会議に備える文書」

(JEA社会委員会文書)


一、「沖縄」は21世紀に直面している日本全体の諸問題の先駆的な役割を担っている

政治的意味合いからいえば、日米安保にみられる基地問題との絶えざる日常的戦いであり、憲法的視点としては日本本土でなし崩し的解釈になりつつある憲法九条を基地のない平和な沖縄を取り戻したいとの願いから字義的憲法解釈に傾き、不戦憲法の存在を世界に示し、恒久平和を粘り強く国際世論に訴えてきた。民族的にいえば、「単一民族」「大和民族」論にみられる偏狭な民族主権主義の陋習を打破できず、内への同化と外への差別へのこだわりの中で呻吟している大和の姿を見るとき、沖縄は内側から開くアジアに開かれた未来を示すモデルを提供していることで意味がある。「脱亜入欧」の体質を脱皮する足がかりを沖縄から得ることになるのではないか。

二、 宣教論的視点としての「沖縄」

明治以降の近代日本は、国家=宗教、天皇=神という国家宗教・政治宗教のイデオロギーを中心として形成され今日に至っている。キリスト教は、日本にあって百年余、この国家宗教に絡め取られて、自由に宣教が展開されているとは言いがたい。今だ、分離出来ず身を摺り合わせている面を残している。近代日本の体質は、個人の市民権と民主主義を無視した膨張国策を計り、波錠を来したのは周知の事実である。戦後、日本の教会は、この内なる体質をどれだけ克服し清算出来たのか。沖縄を見るとき残念ながら日本国家の悪しき体質の集大成をそこに残し、日本国家の「罪の縮図」をそこにみるおもいがする。しかし、沖縄は日本でありながら、国家宗教からもっとも疎遠なところに位置し「ウチナン」の自己同一性まで脅かすことはできなかったようである。沖縄には天皇制は「ない」「いらない」というのが、今日の沖縄状況である。国家に絡め取られていないから、ああがらうことが出来たとも言える。その沖縄の教会の闘いの本質にあるものを見つめ直す時、日本宣教の在り方に、本来は開かれて来ることになる。

三、JEAのいう「聖書信仰」

「聖書の十全霊感」「信仰と生活との誤りなき規範」は、戦中の教会の教憲の中の重要事項として例外なく織り込まれている。果たしてあれは「聖書信仰」であったのか? 「あなたがたは、その実によって彼らを見分ける」(マタイ7:20) 苦しき果実となったのは内と外、これは政治領域、これは社会領域、これは霊的に関わりのないこととして現実と分離した中で「逃げ場」をつくった聖書解釈をしてきた結果であったのではないか。歴史の中の教会は、政治・社会の根底を揺るがしてきたことを知るとき、「聖書信仰」に立つものが目を閉ざしてすむ領域の無いことを知らなければならない。

「WHOLE GOSPEL」(ローザンヌ宣言)を沖縄で日本の宣教の見直しを計るものは、まじめに再考せねばならぬ事柄といえる。沖縄は二元論に逃げ込めるような「場」ではない。常に一元論的にとらえ直しを迫られている「場」である。そこに身を置かなければ「公信力」・「地の塩」は保ち得ないことになる。本土でシャロームが「平安」と内心のこととして言い得ても、沖縄では「平和」としか説教できない「場」である。聖書信仰を全体的総合的にとらえ直すこと。これが「WHOL GOSPEL」ではないのか。

日本の教会の祈りを集め、新しい宣教論が生み出されることを期待したい。その時、日本教会はアジアの諸教会と共有できる部分を持つことができ、真のアジアの兄弟姉妹との一体化を許されるのではないか。