第7課 「救いの確信」

 クリスマスにこの地上に来られたイエス・キリストは、何をして下さったのでしょうか。そしてそれは、今の私達と、どういう関係があるのでしょうか。

・・・これは、とても大切なことです。

 そして、私達の人生を変えることです。

 それを今日は、イエス・キリストの一つの御言葉を手がかりに、味わいたいと思います。

《ヨハネの福音書5章24節》

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 「まことに、まことに」というのは、原文では「アーメン、アーメン」と言っているのですが、「これから、非常に大切な、本当のことを言うから、よくよく聞くように。」という意味です。

 では、ここでイエス・キリストが、非常に大切な、どのような内容のことを言っているかと言いますと、ここに3つの約束が語られています。

 この3つが、前に申し上げた(第3課『天地創造』と『人類の堕落』)、「人間の死」ということに深く関わっています。

 人間は、皆「死」に縛られています。

 その「死」には、3つの局面がありました。

1、第一に、「霊的な死」

2、第二に、「肉体の死」と「死後の審き」

3、第三に、「永遠の死」

 ここで語られているイエス・キリストの御言葉は、この3つの死に一つ一つ見事に対応しています。

1、第一に、「霊的な死」に対して、「死からいのちに移っている」

2、第二に、「肉体の死」と「死後の審き」に対して、「さばきに会うことがない」

3、第三に、「永遠の死」に対して、「永遠のいのちを持つ」

・・・つまり、イエス・キリストはここで、「私は、人間を縛る死を、そのあらゆる面で解決する」と宣言しておられるわけです。それが「まことに、まことに」の内容なのです。

 これは、すごいことです。

 「死」を、過去・現在・未来の全ての面にわたって、完全に解決し、生命をそこにもたらすのだというわけですから。

 さてこの御言葉で、私達がそれを自分のものにする条件は何であると教えられているでしょうか。

 一言で言えば、「信じる」ということです。

 「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は」とあります。

 ではそれは、いつ、私達のものになると教えているでしょうか。

 信じた時です。今すでに信じているならば、すでに実現しています。「・・・いるのです。」という言葉が、それを示しています。決して、「・・・するでしょう。」とか、「・・・するといいですね。」とか、「・・・するかも知れない。」とは、言われていないのです。救いはここで、すでに確定した、すでに実現したものとして語られています。

 時々出会う誤解は、「私達は、死んだら天国に行くのでしょう」という考え方です。あるいは、「死んだら、神様に救われる」という考え方です。

 イエス・キリストは、「死後の救い」はもちろんですが、それだけではなく、「今、ここで、実現している、確定している救い」を教えているのです。

 これに関連して、2・3のことを確かめておきたいと思います。

(1)まず、「自分の救いの確信を持つ」ということです。

-1-自分の救い、永遠の行き先について、私達は知ることが出来るのでしょうか。

 この点について、以下のような考え方に出会います。

1.救いは確信できない。死んでみないと本当に天国へ行けるのか、地獄行きなのかわからない。

2.聖書を十分に学び、詳しく知ったなら確信できる。

3.イエス様を、自分の救い主と心から信じているなら、救われていると確信できる。

4.罪を犯さないような、立派なクリスチャンになれたら、そのときは確信してもよい。

5.何か特別な経験をしたら確信してもよい。

・・・それぞれ、そう考えるとどうなるかも、考えてみましょう。

1→もしそうだとすれば、人生の終わりは大変恐ろしいものとなるでしょう。

2→そうだとすれば、誰も確信できないでしょう。これで十分とは誰にも言えないのですから。

3→そうだとすれば、…すばらしいことです。

4→これも、救いの確信は誰にも持てないことになります。

5→こうおっしゃる方も多いのですが、…。

 ではどれが、聖書の教える、またイエス・キリストの教える救いのあり方なのでしょうか。

・・・「3」です。

-2-「救いの確信」というテーマを考える時、大切なのは、自分自身を顧みることです。

 えてして出てくる考えは、「では、あの人はどうだろうか」というものです。

 「福音に触れなかった人は?」「クリスチャンではなかったけれども善人だった人は?」・・・と色々と出て来ます。

 突き詰めて論理的に言えば、「他人の救いはわからない」のです。極端に言えば、見かけ上クリスチャンであっても、本当に救われているかどうかは「神のみぞ知る」の世界です。

 しかし、自分自身については、「自分の救いは確信できる」のです。

 それは、「信仰」によって、自分のものとなっているのです。

 では、「自分は救われている」と、何に根拠を置いて言えるのでしょうか。・・・「神と神の言葉は信頼できる」からです。その、神の言葉である聖書が、信じる者は救われている、と断言しているからです。

 誰かが、あなたに、「どうしてあなたは、自分が救われているなどと言えるのですか?」「どうして永遠の命を持っているとわかるのですか」と尋ねたたならば、何と答えればよいでしょうか。・・・「神の言葉、聖書に、そう書いてあるから」です。

 救いの根拠は、「感情」ではありません。「思い込み」ではありません。そんなものは毎日変化するものです。そうではなくて、もっと客観的な、人間の外側の神の側に、救いの確かな根拠を、私達は持っているのです。

-3-ではあなたは、救いの確信を持っておられるでしょうか。

 これが大切な質問です。

 もちろん、聖書を学ぶことも大切でしょう。

 祈ることも、教会に行くことも大切でしょう。

 しかし、突き詰めれば、大切なのは「救いを得ること」です。救いの確信を持って、神と共に生きることです。

(2)では、救いの確信を持って生きる、ということは、具体的にはどういうことでしょうか。

 それは、私達はすでに「天国人」であるということです。「すでに救われた者」として生きるということです。

 つまり、「救われるため」に生きるのではなく、「救われた者」として生きるということです。これは、大きな違いなのです。

 天国というところは、「やがて行く」所でもありますが、「すでに今いる」所でもあります。

 「永遠の命」は、「やがて手に入れる」ものではなくて、「今すでに頂いている」もの、すでに始まり、すでに味わっているものです。

 クリスチャンは、やがて天国という素晴らしい所に行くと言う人がいます。これは正しいことです。しかし、そのために、今の地上の喜びを我慢しているというのなら、それは間違っています。(そんな風に間違えているから、「どうせクリスチャンになるなら、出来るだけ人生の終わりになろう。出来れば死ぬ直前になろう。」などという間違った考えが生じるのです。)

 地上において、すでに天国は始まっています。

 天国とは、神と共に生きる所です。

 地上で、今、すでに、神と共に生きるのです。

 それは、当然、素晴らしい喜びにあふれた人生です。

 それに比べれば、神を抜きにした人生というのは、(使徒パウロに言わせれば)チリあくた、つまり「ゴミ」のようなものとさえ思えるほど、神と共に生きる人生は素晴らしいのです。

 私が牧師として歩んで来たささやかな経験の中でも、お年を召してから信仰を持たれた方々が異口同音におっしゃることは、「もっと早く信仰を持てば良かった。そうすれば、もっと素晴らしい人生が味わえたのに。」ということでした。・・・いえいえ、遅すぎたのではありません。それはそれで神様は、一番良い人生を下さっていたのだと知らなければならないでしょう。しかしとにかく、救いは今ここで始まるということを知って下さい。

 すでに救われた人生。やがての天国は、想像もつかないほど素晴らしいわけですが、その一端を、あるいは前味を、地上で味わって生きるのです。天を目指して。・・・これがクリスチャン人生です。

 その本当の味わいを自分のものとするためには、救いの確信を持って生きることが、大切なことなのです。

 「すでに救われた者」として生きるということは、キリスト教を他の宗教から区別する大きな点です。

 他の宗教のほとんどは、「救われるために」生きるのです。

 私達が、「ものみの塔(エホバの証人)」とぶつかる一つの点は、ここです。

 私は、「私はすでにイエス・キリストによって救われました」と言う。

 彼らは、「そんなことはあり得ない。死んでみなければわからない。」と言います。

・・・これは、根本的に異なった人生観をもたらすのだということを知って下さい。

 なぜかというと、「救いは不確定でわからない」と言う彼らは、「救われるために、救いの確率を高めるために、神の御心にかなった行いを積まなければならない」と考えるからです。(当然ですね。)そのために、何をするかというと、・・・戸別訪問です。・・・ものみの塔では個別訪問ですが、この「良き業」は、宗教によって色々です。・・・修行をする、施しをする、ボランティアをする、献金をする、奉仕活動をする、・・・

 しかし、誰も「これで充分にした」とは言えないわけですから、「良き業」によっては救いの確信を持つことはできませんし、平安は得られないのです。(いいかげんな人は「これくらいでいいだろう。ね、神様。」なんて思うかも知れませんが、真面目な人ほど、自分の姿を見据え、その罪の性質を見抜き、善行の動機まで問うでしょう。)

 しかしこのような、強迫観念に突き動かされるような「善行」とか、「自分の救いのため」の善行などというものは、聖書の教えからはかけ離れたものです。それは、「善行」ではなく、要するに「自分のため」のエゴではありませんか。

 聖書は、そうではなくて、「私はすでに、一方的な神様の愛によって、救われた。」「だから」「その神様の恵みに感謝して、喜びをもって答えよう。」という意味で、「善き業」をするように教えるのです。

 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とイエス・キリストは言われました。

 この両者の違いの大きさがわかって頂けるでしょうか。

自分が救われるためにする善行、と、

自分が救われたから、喜んでする善行、とは、

大違いです。

 私達は、神様に愛されて、ただ信仰のみによって救われた、この確信を持って生きることが大切です。それが、喜びにあふれた、いきいきした人生を生きるのに不可欠なことです。

 毎日を振り返る時に、そこに、すでに救われた者だけが味わえる喜びがあるはずです。それを神様に感謝して、次の日に向かいましょう。

 クリスチャンというのは、「クリスチャンだから、何をしなくちゃいけない」とか、「何をしてはいけない」というものではありません。すでに救われた、という大きな恵みの中に生かされる者として、喜んで「神のために何をする」「何をしない」と信仰の決断をしていく者なのです。そのようにしながら、ますます神様と共に生きる御恵みを味わって行く・・・そういう歩みに進みたいものです。


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