第9課  キリストの神性・復活について

 世の中に色々な宗教・信仰がありますが、誰を(または何を)信仰の対象にしているかということは決定的に重要なことでしょう。そこにこそ、その信仰が真理か偽物かがかかっているからです。

 聖書は、創造主なる唯一の真の神のみを礼拝すべきことを教えています。では救い主イエス・キリストと神様との関係はいかなるものなのでしょうか。このことを表現する言葉が「三位一体」「二性一人格」です。この教えは「イエス・キリストは誰であるのか」ということを考える上で最も重要な核心となる真理です。イエス・キリストの理解を誤ると、異端になってしまいますから、この点を充分に注意深く理解しておくことが大切

です。(事実、キリスト教に起源を持つ異端は、この教理を歪めて作り出されたものが多いのです。「ものみの塔」(エホバの証人)や「モルモン教」もそうです。)

 この課では、イエス・キリストに関わる上記の教理を学び、そしてもう一つ、イエス・キリストの救いのみわざを考える上で「十字架」と共に欠かせない「復活」の教えを学びます。

〔1〕キリストの神性・人性(イエス・キリストは神であり、かつ人である)

(1)イエス・キリストは神である。

 ここでは「三位一体」の内、「子なる神」イエス・キリストの神性のみ取り上げます。これは聖書の中に実に数多く出てくる教えですが、歴史の中でも色々な面から論争がなされてきたことですので、詳しく取り上げると1冊の本になってしまいます。それでごく基本的な4つのことを挙げておきます。

1、聖書の中で、人々がイエス・キリストを礼拝している。

 マタイ14章33節(弟子達が)、マタイ15章25節(カナン人の女が)、マタイ28章9節(マリヤ達が)、マタイ28章16〜17節(弟子達が)→これらの記録は、もしイエス・キリストが神でなかったら、全て「偶像礼拝」になってしまいます。神ご自身以外のものを礼拝の対象とすることは、聖書が決して許していない最大級の罪です。人間や天使を礼拝してはいけないことは、使徒 10章25〜26節、使徒14章11〜18節、黙示録19章9〜10節からも明らかにわかります。人々がご自分を礼拝することを許した(ペテロもパウロも天使も、人々が自分を礼拝することを止めました)ということは、イエス・キリストが、ご自

分が神であって礼拝を受けることを当然としていたことを教えています。そして人々は、イエス・キリストを礼拝することで、三位一体の神様を礼拝したのです。

2、イエス・キリストを神としている聖書箇所がある。

 ヨハネ1章1節、ヨハネ1章18節、ヨハネ20章28節、テトス2章13節、ペテロ第二1章1節、ヘブル1章8節、ローマ9章9節、イザヤ書9章6節の箇所は、ストレートに「イエス・キリストが神である」ことを表現しています。

 この他、やや間接的に、「父なる神」と「イエス・キリスト」を同格扱いに並列している箇所は、非常に多いのです。例えば、・・・

  1、マタイ26章63〜65節の大祭司とイエス・キリストの問答、

  2、マタイ28章19節(特に「御名」が原語で単数形であることに注意)、

  3、ピリピ2章6節や、エペソ1章2節の表現(同じものが多くの手紙にあります)  4、エペソ1章3〜14節の三位一体の神に対応した賛美の配列、

  5、エペソ4章4〜6節における三位一体の配列、

  6、第一テサロニケ1章1〜2節の表現、……各手紙のあいさつや祝福の祈りの中にたくさんあります。)                                           

3、旧約聖書の中で神御自身について言われていることが、新約聖書でイエス・キリストに当てはめられていること。 

 また、新約聖書で神とイエス・キリストが同じ名で呼ばれていること。       

例1、神は救い主

 (詩篇18篇2節、106篇1節、イザヤ書等)(新約聖書でも神は救い主と呼ばれている)

 −−−イエス・キリストは救い主(ルカ2章11節、ルカ1章46節も参照、使徒5章31節、13章23節等々)

例2、神は創造者(創世記1章1節、イザヤ40章28節等)             

  −−−イエス・キリストは創造者(コロサイ1章16節、ヨハネ1章3節、ヘブル1章2節、ヘブル1章10〜12節等)

例3、神は主の主(申命記10章17節、新約でも第一テモテ6章15節で神は主の主である)

 −−−イエス・キリストは主の主(黙示録17章14節、黙示録19章16節)

例4、神は刺し通される(ゼカリヤ12章10節)

 −−−それはイエス・キリストのことであった(ヨハネ19章37節、黙示録1章7節)

例5、神の道を備える者を遣わす(マラキ3章1節、4章5節、イザヤ40章3節)

 −−−バプテスマのヨハネはイエス・キリストの道を備えた(マルコ1章2〜3節)

例6、神の名を呼ぶ者は救われる(ヨエル2章32節)

 −−−イエス・キリストの名以外に救いはない(使徒4章12節)

 その他、神は贖い主−−−イエス・キリストは贖い主 

     神はさばきをする−−−イエス・キリストはさばきをする       

     神は罪を赦す−−−イエス・キリストは罪を赦す            

     神に栄光を帰すべきである−−−イエス・キリストに栄光を帰すべきである 

4、イエス・キリストのご性質には、神にしかないご性質がある。   

例1、「主」と呼ばれること。「主」は神お一人である。

 −−−イエス・キリストは主である。(ピリピ2章11節、第一コリント12章3節等) 例2、永遠性(ヨハネ1章1節、ヨハネ17章5節、黙示録22章13節)

例3、遍在性(空間によって制約されない)(マタイ28章18節、エペソ1章22〜23節)

例4、普遍的力と絶対的権威(マタイ28章18節、エペソ1章22節)

例5、ご自身の内にまことのいのちを持っている(ヨハネ1章4節、ヨハネ5章26節)

例6、祈りの対象となる(使徒7章59節)

例7、全宇宙の維持(コロサイ1章17節)

 

(2)「三位一体」と「キリストの二性一人格」                  

 上記で、「イエス・キリストが神である」ということを確認しました。しかし一方「イエス・キリストは人である」ということも聖書に出て来ます。ですから、正確には「イエス・キリストは神であり、かつ人である」という両面を良く理解しておかなければなりません。これを「キリストの二性一人格」と言いますが、「三位一体」の教えは「二性一人格」とセットになって初めてバランスのとれた理解となるわけです。ここで、この二つの教えの意味内容を確認します。知っているつもりで案外いい加減な理解をしていることが多いのです。

1、三位一体 

 「三位一体」の意味を簡単に言うと、「唯一の真の神には、三つの人格(ペルソナ、位格と言います)があり、それは父と子と聖霊である」ということです。

 つまり父と子と聖霊の「三位」には、人格的な区別はありますが、一つの神としての同じ本質を持ち、性質も属性も同じです。それぞれバラバラに独立自存しているのではなく、永遠に一つの神のみ心のもとに一致しておられます。それは本当の意味で「一体」なのであり、「三位一体」の神は「唯一神教」の神です。

注1: 「三位一体」は「三神一体」や「三者一体」ではありません。つまり、父と子と聖霊と三つの独立した神々がおられて、それが一つに協力してみわざをなさっているというのではありません。これでは「多神教」になってしまいます。

注2:「三位一体」は「一位三体」ではありません。つまり、唯一の神がその時々の事情によって、父なる神になったり、子なる神になったり、聖霊なる神になったりするのではありません。これでは、子なる神が地上におられる間、天には神がいなかったことになり、イエス・キリストは誰に祈りをささげたのか?…などという妙なことになってしまいます。

 聖書の教えは「三神一体」でも「三者一体」でも「一位三体」でもなく、「三位一体」です。神は永遠から永遠まで、父と子と聖霊の三つの人格をお持ちなのです。

注:三位一体の三つの人格の区別について

 これまで見てきたように、父・子・聖霊は、同じ名で呼ばれたり、同じみことばが当てはめられていたりしていて、私達の目には文字どおり「一体」で区別が出来ないところ

が多いのですが、それでもごくおおざっぱに言って、「役割」上の区別がある、と言うことが出来ます。つまり、・・・

 1、父なる神は「計画」なさる方。例えば、私達の救いを計画して下さった。

 2、子なる神は「実行」なさる方。例えば、十字架の死と復活により、救いを達成して下さった。

 3、聖霊なる神は「適用」なさる方。例えば、キリストの救いを私達の現実のものとして下さる。

 これは「役割」の区別であって、決して「上下関係」ではありません。つまり父・子・聖霊の間に上下関係や優劣関係はないのです。(優劣があったら神ではありません)これは例えば、妻は夫に従うとしてもそれは「上下・優劣」の関係ではなく、神の秩序の下での「役割」の区別であるのと同じです。

2、二性一人格

 これは、主イエス・キリストは真の神であり、かつ真の人であるということを表現した言葉です。つまり、キリストは子なる神としてのご自身の中に、神としての性質(神性)と、人としての性質(人性)の両方の性質を兼ね備えておられるのです。(私達と同じ人間である、という時、「罪だけは別として」ということも忘れないようにして下さい) 

 ごくおおざっぱに図示すると次のようになります。

     ┏父なる神  ┌神性
唯一の神━┫子なる神──┤
     ┗聖霊なる神 └人性

※これらについては、ここで述べたことはごく基本的なことに過ぎません。聖書にはこれに関係する部分 がきわめてたくさんありますから、興味があれば、参考書(組織神学の中で、三位一体や、キリスト論に関する部分を扱ったもの)を読まれるのもよいでしょう。神・キリストについて正確に理解すること はとても大切なことですから。これをあやふやにしておくと、異端の教えに道を開くことになりかねません。    


〔2〕主イエス・キリストの「復活」

 聖書の教えの中心が「十字架の救い」であることは今更言うまでもないことでしょうが、「復活」もそれと同じ重さを持った重要な出来事であったことを強調しておきたいと思います。「十字架」と「復活」は二つでワンセットとなって、私達の救いを実現しているのです。使徒パウロも、「もし、キリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。」(第一コリント15章17節)と言っています。つまり、「復活」は十字架の救いの付属物や後日談ではなく、これなしでは救いが成り立たない不可欠で本質的に重要な部分なのです。

 私は求道者の頃、これがよくわかりませんでした。十字架によって罪が赦されるのなら、イエス・キリストが十字架に架かった時点でもう救いには充分ではないか、と思ったのです。

 私が「頭の部分で」信仰が納得出来たのも「復活」がわかった時でした。聖書を読み、色々調べると、どうしても復活があったに違いない。とすると、イエス・キリストが言ったことは皆本当だったに違いない。つまり聖書は誤りの無い神のみことばで、イエス・キリストは自分が言った通り神であったに違いない………と納得出来ていったのです。「復活」は、これによってキリスト教全体が、立ちもし倒れもする要(かなめ)の一つなのです。

(1)キリストの復活の意味

1、十字架の救いの完成(死に対する勝利)

 聖書は、私達が神様から離れて罪を犯したので、その結果として「死」の制約を受け、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっている」(ヘブル2章14〜15節、ローマ6章23節)と言っています。ですから私達の救いのためには、十字架により罪が処分されるだけでなく、私達の最後の敵である死(第一コリント15章26節)が打ち破られ、私達が死から開放される必要があるのです。これをなしとげて下さったのが、イエス・キリストの復活でした。十字架と復活により、私達は罪と死から救われている

のです。(第一コリント15章54〜57節、第二テモテ1章10節、ヘブル2章14〜15節)

2、キリストを信じる者もやがて復活するという希望と、その保証を与える。(第一テサロニケ4章13〜18節)

 イエス・キリストが死を打ち破られたので、私達にとって死は無力です。死は人生の終わりではなく、永遠の天の御国へ入れられる時です。世の終わりの時、主イエスの再臨される時、人間は皆復活します。それは私達信者にとっては、御国で神と共に永遠の命を生きるための復活であり、不信者にとっては、神のさばきを受けるための復活です。

 その時私達は、今の肉体にではなく、それとは異質ではるかにすばらしい、「朽ちない 栄光の御霊に属する」(第一コリント15章35〜54節)新しいからだに復活するのです。それは、復活の主イエス・キリストの似姿とされるのです。つまり、主イエスの復活は、私達信者の復活をあらかじめ表わし、それが必ず起こることを約束し、保証するものなのです。ですから、主イエスの復活は「初穂」(第一コリント15章20〜23節)、「初子」(コロサイ1章18節)と呼ばれているのです。

 ですから、私達にとって地上の死別は、(もちろん別離の悲しみは深いのですが、しかし)希望のない永遠の別れではありません。信者は、やがて主イエスの再臨の時、復活して再開し、永遠に天の御国で共に生きることになります。それは何という輝かしい、慰めに満ちた希望でしょうか。

3、主の復活は、新しい永遠の命に私達を生かす。

 十字架によって罪が赦されただけでは、「古い自分に死んだ」「肉に死んだ」ということだけです。主の復活はさらに「新しい永遠の命に生きる」「御霊にあって生きる」ということを私達にもたらします。つまり、「本当の人生に生きる」ということを私達に実現するのです。

 ですから、自分の罪を赦して頂いて救われることだけを願っていて、主なる神様に従って生きていくことを願わない自己中心の信仰でいると、主の復活の意味がわからないのです。主に真実に従って生きていこうとする時、主の復活の事実が自分にどれほど大きな力

(主を復活させた神の全能の力!)を約束しているかということが本当にわかって神様をほめたたえるのです。(ローマ6章4〜5節、第一コリント6章14節、第二コリント4章14節)

 この事実は、私達を確信に満ちた人生へと導きます。私達は自分の人生の結末を知っているのですから今ここで与えられている一日一日を神様に感謝して、神様と人のために生かされる者として、力強く生きていくことが出来るのです。主イエスの復活は、このように私達の毎日の生活にも力を与えてくれるものなのです。

4、主イエス・キリストが真の救い主なる神であることを表わす。

 もし主イエスが死んで終わりだったら、彼は神ではありません。彼が語った救いも偽りであったということになるでしょう。復活は、主イエスがご自分で語っていた通りの方(神であり、キリストである方)であることを証明致しました。死はキリストを支配せず(ローマ6章9節)、主は今も生きて私達といつも共にいて下さるのです。(マタイ28章20節)

(2)キリストの復活の事実に対する疑問について。

 聖書の中には、奇跡的な出来事の記録があります。その中でも主の復活は最大の奇跡、奇跡中の奇跡です。これを信じ難いこととして退けようとする試みが色々となされてきました。以下のようなものです。                                               

1、女達が、イエスの葬られていた墓を間違えたのだという説。                    

 だから墓の中にはイエスの遺体が無かった。だから女達は、イエスが復活したと早とちりしたというのです。 

2、イエスは死んだのではなく、気絶していたのであって、それが墓の中で息を吹き返したという説。

3、誰かが(弟子たちか、他の誰かが)、イエスの死体を盗んだのだという説。

4、弟子達は幻覚を見たのだという説。

 これらはどれも、聖書の記録と照合してよく考えてみると有り得ない説明であることがわかります。次にそれを簡単に考えてみましょう。

(3)聖書の記録する主イエス・キリストの復活。

1、主イエスが葬られた墓が空になっていた、ということは否定出来ない「事実」です。

 なぜなら、キリスト教を弾圧する側の行政側でさえも、このことは認めていたのですから。(マタイ28章11〜15節) もし墓の中にイエスの死体があったのなら、(例えば女達の間違い等によって)イエスの弟子達が「主イエスはよみがえった!」と大騒ぎを始めた時、それを止めたい支配者達は当然墓の中からイエスの死体を出して見せて、「馬鹿なことを言うな。イエスの死体はほらここにあるじゃないか。復活などしていない。」と言うことが出来たはずです。ところが彼らはそうしませんでした。いや出来なかったのです。墓の中が空だということは、クリスチャン側と支配者側共通の認識だったのです。

2、弟子達は盗み出さなかった。

 イエスは十字架に架かる前から、「自分は十字架に架かって

死に、三日目によみがえる」ということを繰り返し予告していました。(マタイ16章21節、20章19節、26章32節) それを知っていた支配者側は、弟子が死体を盗んで「イエスはよみがえった」などど宣伝することを防ぐために、墓に封印をし、番兵達に警備させました。(マタイ27章32〜33節) 盗み出せるような状況ではなかったのです。

 第一それどころか、実際の弟子達は死体を盗む勇気のかけらもなく、むしろ主イエスの逮捕に動揺して逃げてしまい、ユダヤ人を恐れて隠れていたのでした。(マタイ26章56節、ヨハネ20章19節)

3、弟子達の驚くべき変化の事実は、復活以外の何によって説明出来るでしょうか。

 墓の中が空だと知った支配者達は、「夜、番兵達が眠っている間に弟子達がイエスの

死体を盗んでいったのだ」という説明を流布して、事態を切り抜けようとしました。(マタイ28章11〜15節)しかしこれはひどく不合理な言い訳です。ローマ兵は居眠りなどすれば本来死刑ですから、こんな報告を自分からするわけがありません。これは人為的に作り出された説明なのです。

 さらに大切な事実があります。それは弟子達の変化なのです。弟子達は前述のように、主イエスが逮捕されると逃げて隠れてしまうような弱い(私達と全く同じような)人達でした。では何故教会が誕生したのでしょうか。つまり、イエスが十字架に死んだ直後、何故弟子達は突然に、「主イエスは復活した。この方こそ救い主だ。」と宣教を始めたのでしょうか。そして、支配者側が弾圧を加えたにもかかわらず、何故弟子達はその主張を貫き、命の危険をも顧みずに伝道を続け、その結果教会の誕生をもたらすほどに強力な働きをすることになったのでしょうか。何が、あのように弱く逃げていた弟子達を、短期間のうちにまるで別人のように変えたのでしょうか。

 実は、この事実、つまり「弟子達の変化」、または「教会の誕生 教会は現にあるのですから、これは誰にも否定出来ない歴史的事実です)ということが、イエスが十字架に架かった後の歴史の最大の「ミステリー」なのです。何かとんでもないことが起こったに違いない。一体何が起こったのか?

 聖書は、その時主イエスの「復活」が起こり、それに出会った弟子達は、その強烈な体験によって大きく変えられてしまったのだということを記録しています。(その後の「聖霊降臨」の出来事も弟子達に神の力を与える大きな出来事でした。)「復活」以外の説明を考えることが出来るでしょうか。教会が今存在している、ということ自体が、「復活」の強力な証拠なのです。

 この「ミステリー」は、弟子達が死体を盗んだという説を再度否定します。何故なら、もし弟子達が死体を盗んだのなら、弟子達は「主イエスが復活した」と言い広めながら、自分達は嘘をついているということを知っていたことになります。しかし、聖書を読む時、弟子達の宣教の姿はそのような印象とはかけ離れています。嘘に基づく宣教のためにあのように命をかけることが出来るはずはありません。聖書を読めば、少なくとも弟子達自身は、自分達が復活のイエスに出会ったということを、決して否定出来ない事実として受け止めていることがわかります。

4、復活のイエスに出会った弟子達の証言の確かさ。

 弟子達は、主イエスから「三日目の復活」を予告されていたにもかかわらず、それを信じ期待してはいませんでした。むしろ復活の主イエスに出会うと、疑い、恐れ、幽霊ではないかと思い、………という有様で、主イエスから色々な証拠を示されて、その不信仰を正されることになるのです。(マタイ28章17節、マルコ16章11節、13節、ルカ24章13〜43節、ヨハネ20章24〜29節、使徒1章3節) ですから、弟子達が余りに強く復活への期待を持っていたから彼らは幻覚を見たのだ、ということは考えられません。しかも復活の主イエスに出会った証人達は5百人以上いたのだ、ということですから(第一コリント15章6節)、当時この出来事がどれほど客観的に確かめられていたかということは私達の想像以上のことであろうと思います。

 そのようにして聖書に記録されている証言は、復活の主イエスが食事をされた(ルカ 24章36〜43節)等、きわめて具体的なものです。これらの記録は、主イエスが「蘇生」した(気絶や、仮死状態からそのまま息を吹き返した)のではなく、全く新しい「復活の体」をもってよみがえったことを教えています。

5、使徒パウロの回心(使徒9章1〜9節、第一コリント15章8節)

 当初キリスト教を強烈に迫害していたパウロが、突然回心してクリスチャンとなり、そ

の後の世界を変えるほどの働きをしたことが聖書に記録されていますが、その突然の回心のきっかけは、復活の主イエスとの出会いであった、と本人は繰り返し証言しています。彼は嘘をついているのでしょうか。嘘のために全てをなげうち、あれだけの苦難をなめながら宣教に命をかけたのでしょうか。使徒パウロの存在は、キリストの復活の証拠としても非常に重みのあることです。

 最後に、主イエス・キリストの救いの核心は、十字架だけでなく「十字架と復活」にあるのだということ(ローマ10章9節)をもう一度強調しておきたいと思います。この二つをよく味わって下さい。



     

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  第9課 キリストの神性・復活について                                   

1、聖書の教える「三位一体」とはどのようなことですか。

2、聖書の教える「キリストの二性一人格」とはどのようなことですか。

3、「三位一体」「二性一人格」について納得出来ましたか。疑問な点があれば、お書き下さい。

4、主イエス・キリストの復活にはどのような意味がありますか。

5、キリストが復活したとあなたは確信出来ますか。あなが確信出来る最大の理由は何ですか。

6、キリストの復活を信じないと、どのようなキリスト教になると思いますか。      (第一コリント15章14〜19節参照)

7、何かわからなかった点や、ご質問がありますか。    

                   


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