私達クリスチャンは、共に集まって教会を形成しています。それは、単に気の合う人同士の集まるサークルのようなものではありません。また同じ宗教を持つ者の結社でもなく、人間が自由に作る組織でもありません。教会を存在させているのは、神御自身です。この課では、教会とは何なのか、教会はどのような使命と働きを担っているのか、どのように運営されるべきものなのか、というようなことについて、基本的なことを学びます。「教会論」は非常に大きな奥行を持っています。これをよく理解して、自分が教会に加えられているということが、どんなに大きな恵みであるかを知って頂きたいのです。
「教会」の原語のギリシャ語(エクレシア)は「呼び出された者の集まり」を意味します。神様の愛によって、罪と死の泥沼から呼び出され(救い出され)、神様のための働きに召されているのが教会です。
私達の属する日本同盟基督教団の「信仰告白」の第6項に、教会について、「教会は、聖霊によって召し出されたキリストの体であって、キリストはそのかしらである。贖われたものはみなその肢体である。地上の教会は、再び来たりたもう主を待ち望みつつ、聖書の真理に立ち、礼拝を守り、聖礼典を執行し、戒規を重んじ、すべての造られたものに福音を宣べ伝える。」と記されています。
この告白の中の重要なポイントを幾つか拾いますと、
1、教会の起源が人間ではなく、神にあること。この世に教会を存在させたのは神御自身です。教会は聖霊の働きで召し出された者の集まりです。どの教会も決して誰か人間が創設したのではありません。
2、キリストの体であること。これは聖書独特の大切な真理です。教会は一人一人が一つの体の一部分であるような命のつながった共同体です。(このことはまた後述します)
3、キリストがかしらであること。キリスト以外のかしらは教会にはありません。かしらなる主に従う教会が健全な教会です。教会は教団のものではなく、牧師のものでも、教会員のものでもなく神の教会です。教会では自分の意見を通すことよりも、常にキリストのみ心が求められなければなりません。
4、普遍的な一つの教会(目に見えない教会)と地上の教会(目に見える教会)が表現されていること。(これも後述します)
5、教会の務めとして、聖書の真理(みことば)、礼拝、聖礼典、戒規、福音宣教が挙げられていること。
宗教改革の重要な論点の一つは、「何が本当の教会か」ということでした。この点で、既成のカトリック教会とプロテスタント教会は鋭く対立したのです。上記の告白にも記されていますが、普通、聖書的な教会のしるしとして、下記のことが上げられます。
1、みことばが正しく宣べ伝えられていること。(特にその中心は主日礼拝です。)
2、聖礼典が正しく執行されていること。(聖礼典とは、洗礼と聖餐式の二つです。)
3、戒規が正しく執行されていること。(戒規という言葉が難しければ、とりあえず、教会教育・訓練が正しく行なわれていると理解しておいて頂いても結構です。)
教会論の奥行は大きいことを初めに書きました。それを反映して、聖書の中では実に多くのイメージが教会に当てはめられています。ある学者はそれを96数えています。教会の担う内容は豊かなのです。
ここでは、神様の「三位一体」に対応する3つの大切な教会の本質を上げることにします。
1、教会は「神の民」(父なる神に対応して)ペテロの手紙第一2章9〜10節
全てのクリスチャンは、神の恵みにより救われて「神の民」つまり、「神の国の国民」となりました。そのことをペテロの手紙第一2章9節ではさらに詳しく説明して、クリスチャンは「選ばれた種族」「王である祭司」「聖なる国民」「神の所有とされた民」と表現しています。ルターはこのみことばを中心として、「万人祭司」を掲げて宗教改革をしました。このみことばを味わえば味わうほど、神の救いの恵みがいかに大きなものか、クリスチャンの身分がいかにとんでもなく尊く大きな意義を持っているか、思わされるます。
「選ばれた種族」〜救いはまず神様が私達を一方的な恵みにより選んで下さったことから始まります。
「王である祭司」〜真の王はキリストですが、私達はキリストと共にこの世界をみ心に従って管理統治する尊い使命を担っています。 また私達は皆「祭司」として人々を神のみもとに連れ行き、とりなし、礼拝の主体となる尊い使命も担っています。 「聖なる国民」〜「聖」とは、神のものとして取り分けられているということです。また私達は実質的にも「聖」となるように(聖化)、召されています。 「神の所有とされた民」〜「神の宝の民」「初子」「花嫁」等色々言われています。私達は、神が十字架の代価を払ってまでして買い取った神のものであり、もはや自分のものでも他の誰のものでもないのです。
2、教会は「キリストのからだ」(子なる神に対応して)
この言葉は単なる比喩ではありません。私達は実際に、現実に「キリストのからだ」の部分なのです。教会は、生けるキリストがこの地上でのみわざを進めるために設けた拠点として存在しています。それが「キリストのからだ」と言われていることから、5つのこ
とを学んでおきたいと思います。
1、体の一体性。〜聖書は分裂分派を戒め、一致を繰り返し勧めます。私達は同じキリストと霊的に結びあわされている「一つのからだ」なのです。
2、体の部分の多様性。〜体を構成している各部分は、全て違っています。しかも体全体は調和を持っています。聖書の教える一致とは、皆が同一になれ、ということではなく、多様な賜物を持った多様なメンバーが、全体が調和するように各自の務めを果たすところにあります。
3、体に対する神の主権。〜頭はキリストです。皆が一つの頭に聴き従う所に真の一致があります。
4、体における相互依存。〜救いを「個人主義」的に受け止めているだけでは、神が教会に備えた恵み・祝福を味わうことは決して出来ません。救いには「集団」的な面があるのです。教会で私達は人の助けを必要とし、人を助ける必要があり、誰のことも無視することは出来ません。また自分の成功や失敗が、教会の全体に影響するということも、聖書の教えているところです。
5、体の成熟。〜体全体も各部分も、成熟を目指して成長発展するヴィジョン・必要があります。
3、教会は「聖霊の御住まい・聖霊の交わり」(聖霊なる神に対応して)
前述の信仰告白に「教会は、聖霊によって召し出された」とあるように、教会は聖霊によって創造されたものです。さらに今聖霊は教会に内住しておられます。(教会全体に聖霊は住まわれ、またその構成メンバーであるクリスチャン一人一人に聖霊は住んでおられます。) 聖霊は、教会に本当の命を与え、力を与えます。聖霊こそが、教会でクリスチャンを生き生きと生かす鍵であり、教会の宣教の働きの原動力であります。(使徒1章8節)
「聖霊の交わり」とは、
1、聖霊が与えて下さる私達と神との交わり(垂直的な交わり)と、
2、クリスチャン同士の交わり(水平的な交わり)の両面があります。
故に教会は「聖霊の共同体」と呼ばれ、「御霊の一致」が聖書に強調されているのです。(エペソ4章1節以下等)聖霊は教会に「御霊の賜物」を与え教会を建て上げて下さ
います。(その中心は「愛」です。これにより教会は建て上げられるのです。)
以上、大きな広がりを持つ「教会論」のほんのさわりを学びましたが、教会が存在することと、その教会に自分が加えられている、ということがどんなに大きな恵みであるか、是非味わい続けて下さい。
見えない教会、見える教会という言い方がありますので、簡単に説明しておきます。 1、見えない教会(普遍的な教会、使徒信条の「聖なる公同の教会」)というのは、場所・時代を超えて存在している唯一の教会です。これはイエス・キリストによって救われた全ての(今生きているかいないかに関わりなく全ての)真のクリスチャンによって構成されています。この教会に属している点では、私達はノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、ペテロ、パウロ……と同じ教会のメンバーです!
2、見える教会(地方教会)というのは、一つ一つの具体的な教会(例えば多磨教会)です。見えない教会のメンバーは、見える教会に加わってその教会が真に主のからだとして建て上げられていくことを目指します。見えない教会が本当で、見える教会はそうではないというのではなく、どちらも主の教会です。
1、「召し出され、集められた者達」〜罪と死の世界から、選ばれ、召され、救われた私達は、教会を構成して、神の国をこの地上に表わし、キリストの体を建て上げ、聖霊の交わりによって礼拝し、成長し、クリスチャンの交わりの恵みを分かち合います。神の共同体を作り上げ、神の恵みを味わうのです。
2、召し出され、派遣された者達」〜上記を「内的側面」とすれば、こちらは「外的側面」となります。 私達が救われたのは、先程のペテロの手紙第一2章9節によれば、「それは、あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いて下さった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」という明確な目的があります。また、「大宣教命令」(マタイ28章18〜20節、マルコ16章15節)を見ても、主が私達を福音宣教に「派遣」(ミッション)しているということは聖書の重要な教えです。ここに教会の最重要の使命・働きが教えられているのです。
「宣教」とは、単に「伝道」というよりも、もっと広い意味があります。それを下に書いてみました。
┌1、大宣教命令(マルコ16章15節)
┏(1)伝道┤
福音宣教 ┫ │
(神による派遣)┃ └2、弟子化(マタイ8章19節)
┃ ┌1 福音を宣べ伝える(ペテロの手紙第一2章9節)
┃ └2 生活を通しての証し伝道(マタイ5章16節)
┃ ┏1、社会奉仕
┗(2)社会的責任 ┫
┗2、社会変革(政治的運動も含む)
私達は、世界のありとあらゆる面で(家庭で、地域で、職場で、家族親戚・友人関係の中で………)、ありとあらゆる手段を用いて、神の国が進展するように働く使命があります。それが、救われ、神の国の国民となり、「神のかたち」を回復されたクリスチャンが本来の使命(創世記 の文化命令、または歴史形成命令)を担って生きる尊い姿なのです。
以上を「教会の働き」という点から簡単にまとめると、次の3つになるでしょう。
1、みことばの宣教。
その中心は主日礼拝です。救いの神のみ前に集い、感謝と賛美をささげ、神の語り掛けに耳を傾け、みことばによって自分を変えて頂く場です。また、神を知らずに生きている人々の前に、真の神、真理のみことば、生けるキリストを言葉と行ないをもってあかししていく場でもあります。
さらにあらゆる機会を生かして、救いの福音を「全ての人々に」伝えて行くのが教会の根本的な働きです。
2、聖礼典を執行する。
洗礼式と聖餐式の二つの聖礼典は、主イエスが「このようにしなさい」と命じられたものです。これを正しく行なっていくのは教会の不可欠の働きです。そのことにどれほど深い意義があるかは、次の第8課で学びます。
3、教育。
主イエスは「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と言われました。教会には、救われた人々が主イエスの弟子(主イエスに従い、小さなイエスとして生き生きと生きていく人)に成長していくことを助ける働きがあります。それをもたらすのは、みことばであり、みことばに基づく教育・訓練です。それを提供していくのが教会の働きです。
教会は、神様から頂いている使命・働きを果たすために、色々な交わりや場を設けています。その中心は何と言っても「主日礼拝」です。(これについては第4課で詳しく学びました。)
その他にも、色々な集まりがあります。これを「小グループ」と表現しています。今あるものを列挙致しますと、
1、祈祷会(水曜日夕方、木曜日午前)。〜主を中心として共に集い、祈りを合わせて神の国の前進に参加することは、強調してもしすぎることのない重要な働きです。「その教会の本当の姿は祈祷会にある」と言われるほどです。週の半ばの一時を聖別して、賛美とみことばと祈りの時として守ることをぜひ身に付けたいものです。
2、教会学校(日曜朝)。〜子供達の礼拝、子供達への福音宣教の場です。特にクリスチャンホームの子供達は、教会の子供として、神様の恵みの約束(契約)に基づいて育成することが大切です。
3、婦人会。〜家庭婦人を中心とした集まりです。毎月定例婦人会を持ったり、毎年婦人特伝を行なうなどの活動をしています。
4、青年会。〜未婚の男女を中心とした会です。
5、壮年会。〜結婚して家庭を持つ男性の会です。
6、早天祈祷会(毎朝)。〜
7、家庭集会(数カ所)。〜
この他、教会によっては、学生会、読書会、聖書研究会等々色々な会があります。集うメンバーも、信徒だけのケース、求道者をも交えるケース………色々です。
要は、私達には週に一度の礼拝だけでなく、他にも、自分が生き生きと成長できる場、他の信徒と心を開いて交わりのできる場、祈り合うことのできる場、「ここが私の所属の場だ」と実感できる場、自分の家庭に帰ったようにくつろげる場、そこで神様のための働きをすることのできる場が必要なのです。
「私にとってそれは主日礼拝だ」ということなら、それでもいいのですが、聖書の教えの根本が「神を愛し、人を愛せよ」ということであるならば、その、「人を愛する」という部分をどこで実践できるか、ということは常に私達の大きな課題であるはずです。その場を多様な形で提供しているのが、小グループであると理解して下さい。ですから、自分に合ったものがない、と思うならば、いつでも新しいグループを作って活動する積極性を歓迎致します。また、教会の支援が必要ならば、申し出て下されば出来る限りのバックアップを致します。広い意味での福音宣教のために、沢山の、しかも多様なグループの活動があることが望ましいと考えています。
教会に組織があることや教会政治自体を否定する教派もありますが(例えば無教会派やクウェーカー)教会にふさわしい秩序・組織・政治のあるべきことを聖書は教えています。そのことはここでは詳しく触れません。ここでは、代表的な教会政治の3つの形態を知っておいて頂きたいと思います。
1、監督制。〜監督制では、教会政治の中心は監督(または司教・主教)にあります。使徒の権威が、神が立てる監督に代々受け継がれていくということが基本的な考え方となっています。
2、長老制。〜長老制では、教会政治の中心は複数の長老(牧師も長老の一人です)にあります。そして、個別教会の長老の集まり(小会)から、地域教会の長老の集まり(中会)というふうに段階的な構成があります。そして小会ではなく、中会が中心となっていることが特色です。
3、会衆制。〜会衆制では、教会政治の中心は各個教会、また一人一人の信徒にあります。一般の政治で言えば直接民主制に当たります。
聖書は、秩序・組織・教会政治の大切さは教えていますが、しかし、「教会政治はこれでなければならない」という一つの形態を教えていません。上記の諸形態を取る教派は皆、自分達のやり方の根拠を聖書とキリスト教史に求めています。つまり、聖書の中にも歴史の中にも3つとも登場してきたのであって、どれでなければ聖書的でない、という排他的な態度を取るべきではありません。むしろ、それぞれの長所短所があるわけですから、教会の実情に即した形態を取っていけば良いと思います。教会の状況の変化に応じて形態を変化させることもあり得ることです。ちなみに、私達の日本同盟基督教団は、上記のどれでもない中間的な形態である「合議制」を取って教団運営をしていると言っています。私達の教団の中には上記の3つの形態を目指す教会がそれぞれあります。また、多磨教会の現状では、1、の会衆制と2、の長老制の間で運営されていると受け止めています。
聖書はクリスチャン一人一人が主体的な責任を持って教会に関わり、運営に参加し、主のからだを建て上げ、自分も成長していくべきことを教えています。他方聖書は、教会に
主が立てるリーダーがあり、教会を導くために聖霊が備える幾つかの賜物があります。その賜物を持って主の召命に答えようとしているリーダーを主がお立てになったことを認め、協力し、従い、一致していくことも教えています。これは、「賜物の違い」であって(例えば、ある者は牧師として、ある者は伝道者として、ある者は信徒として教会を建て上げていきます)、「上下関係」では決してありません。各自がそれぞれ主から頂いている賜物を十分に生かして奉仕していけばよいのです。
アフター・バプテスマ・クラス 復習プリント 7
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第7課 教会の働きについて
問1、教会とは何ですか?
問2、教会は誰のものであって、誰の意志が尊重されるべきですか?
問3、教会の大切な使命である「宣教」とはどういうことですか?
問4、教会のおもな働きは何ですか?
問5、教会政治の代表的な3つの形態は何ですか?
問6、教会が堕落することがあるのは、どのような場合だと思いますか。
問7、その他、わからなかたことや、ご質問がありますか?