第6課 献金について

 教会の集会、特に礼拝においては、プログラムに「献金」があります。献金の意味がわからないと、初めて教会に来られた方は、最初とまどうかも知れません。そのことを配慮して、司会者が、「献金は神様の恵みに感謝してささげるものですから、まだ意味のわからない方や、ご用意のない方はなさらなくて結構です」などの説明を加えています。これは、献金は自由に、自発的になされるべきことを初心者向けに言っているのです。けれども、クリスチャンになってからもいつまでも、「献金の意味がわからない」「用意がない」と言っていては困ります。なぜなら、献金には神様の大きな恵みと祝福が伴うことを聖書は教えているからです。これは前回の「奉仕」と同じことなのですが、聖書の教える献金の原理をよくよく学び、確認しないと、全く本質をそれたことをしてしまいかねないことになります。この課では献金についてまとめて学びますが、そのようにして、ぜひ私達が献金の恵み・祝福を知る者とされたいと思います。                                            

〔1〕献金とは?

(1)献金の定義 

 ある受洗準備用のカセットテープの中で、牧師が献金について次のように定義しています。    

 「献金とは、会費・寄付金・説教の聴講料ではなく、主イエス・キリストを信じた人が、その感謝の心を、神に対して金品をもって表わすものである。従って、感謝もなく、強いられたり、いやいやな思いでするなら、むしろしない方がよろしい。」   

 この定義で、「会費・寄付金でなく」と言っているのは、会費や寄付金は、心が伴わなくても、いわばお金を出しさえすればそれでよいわけです。しかし、献金はむしろ「神様に対する心」が本質的に問題とされるのです。ですから、神様に対する感謝がないなら

ば、「むしろしない方がよろしい」と少々ドギツイ言い回しになっていますが、これは「献金はしてもしなくてもよい」と言っているのではなく、「ぜひこの神様への感謝の心を十分に知ってほしい。そのようなクリスチャンであってほしいし、そのような献金であってほしい。」と言おうとしているわけです。

(2)献金の精神 

 まず、いくつかの聖書箇所を読んで下さい。

1、コリント人への手紙第二9章6〜9節 

                 

 私達の教会の「献金」袋には、コリント人への手紙第二9章6〜7節のみことばが書かれています。

 「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」                   

 「神は喜んで与える人を愛して下さいます」とあります。何故でしょうか。それは、

神ご自身が「喜んで与える」方だからです。実際、神様は私達に、お金では決して買えない「永遠の命」を下さいました。それは神様の一方的な「恵み」でした。その上神様は、私達の地上の生活のために、お金では決して買えないものを沢山沢山与えて下さっています。その全てが神様の「恵み」です。また、「与える」ことについては、イエス・キリストの人生こそ、与えることの祝福・恵みを私達に見せて下さった模範でした。 

 だから神様は、私達も「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20章35節)という生き方を味わい、幸せを味わってほしいと願っておられるのです。「喜んで与える人は神に愛される」という霊的な法則があります。

2、ヘブル人への手紙13章5節

 「金銭を愛する生活をしてはいけません………」そしてその理由として、主ご自身が、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われるからだ、と聖書は教えます。つまり、主は絶対に信頼出来る方だから、主ご自身よりも金銭を大切にするような考えではいけない、というのです。

 金銭や献金に対する態度は「お金に対する態度」にとどまりません。実はそれが、「主に対する態度」に密接に関わっているのです。                                          

3、テモテへの手紙第一6章9〜10節

 「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人達は、金を追い求めたために、信仰から迷い出て………」 「信仰」とは、ある意味で抽象的なものです。人の信仰は目に見えないからです。しかしその「信仰」が、その人のお金や献金への態度になると、具体的に現われてきます。「献金は信仰のバロメーター」とよく言われるゆえんです。(但し、この言葉は、「信仰が献金に表われる」ということであって、「献金で信仰が計れる」ということではありません。念のためご注意を。)

 聖書の中には、「金銭を愛して」「信仰から迷い出て」「非常な苦痛をもって自分を刺し通した」人が幾人か出てきます。例えば、アカン、サウル王、イスカリオテのユダ、アナニヤとサッピラ………

 せっかく神様の救いにあずかった私達は、恵みと祝福の道を喜んで歩むべきであって、わざわざ聖書の教えを無視して、彼らの轍を踏むべきではありません。                                           

4、ヤコブの手紙4章4節

 「世を愛することは神に敵することである………」

 「世を愛する」失敗の最大の一つは、金銭へのこだわりです。それは、私達の社会のスキャンダルを見ても、歴史を学んでも、もういやというほど目にすることです。                                           

5、マラキ書3章8〜10節

 「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。………それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。………十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て………こうしてわたしをためしてみよ。」                   ここにいわゆる「十一献金」の教えが出てきますが、それはまた後で学びます。このみことばは、一見私達を脅しているように感じるかも知れませんが、そうではありません。むしろ神様の恵み、そして「あふれるばかりの祝福をあなた方に注ぐ」神様を体験してほしい、と神様は私達に懇願しているのです。

 神様が求めているのは、私達の献金ではありません。神様が求めているのは、私達自身との深い交わりなのです。そして「あふれるばかりの祝福」を私達に注ぎたい、と願っておられるのです。そのすばらしい神様と私達との交わりを、お金に対する執着などというもので壊してしまってはいけないと言っているのです。 

 信仰の先輩達の伝記を読むと、必ずと言ってよいほど、経済的な行き詰まりの中で、神様に信頼し通して、神様から祈りの答えを頂く場面があります。これは、「主を体験」出来る信仰の分野なのです。

 その他幾つか献金の精神をあげておきます。

6、とにかく、お金でつまずかないように心掛けましょう。

 お金自体・富自体は決して悪いものではありません。むしろ神様の恵みです。しかしこれに執着する時に、恵みが恵みでなくなって、かえってつまずきになってしまいます。お金の罪は、私達を神の敵としてしまうのです。だから聖書は繰り返し警告するのです。お金でつまずかないようにしましょう。お金をきよく使いましょう。ささげるべきものは喜んでささげ、その他もみ心に従って使い、貯金もすればよいし感謝して金持ちになればよいのです。全てのお金を賢く用いましょう。 お金でつまずいてあれこれ思い悩むよりは、どうぞ牧師に相談して下さい。

7、献金は、一人一人が主体的な信仰をもって神様のみ前に決断してささげるものです。

 ですから、他人との比較は、全くの無意味であるばかりか、有害無益であるので、決してしてはいけません。また他人の献金を評価してはいけません。献金の評価をするのは神ご自身です。(ルカ21章1〜4節)

 また、自分が幾ら献金しているかを、人にむやみに教えてはいけません。特に未信者に対しては、献金の話をあまり具体的にしないほうがよいでしょう。(教会は信徒の自由献金で運営されていることは話してよいのです。ただ、「自分は幾らしている」とまで言わない方がよい、ということです。)それは、未信者をごまかすためではないのです。ただ、神様の救い・キリストの犠牲・永遠の命といったことの価値をまだ知らない人にとっては、たとえ百円の献金でも「もったいない」ということになってしまいかねないからです。お金の使い道は、何に価値を見出すかによって、安くもなり、高くもなるものです。

8、教会の働きは、信徒の献金によってまかなわれていきます。

 そのため年度ごとに「予算」が立てられ、決算報告がなされ、毎月の会計報告もなされています。神様にささげられた献金が、神様のみわざのために正しく用いられることや(疑問点は会計係に遠慮なく聞いて確かめて下さい)、必要な額が満たされることにも、各自関心をもって頂きたいと思います。教会の課題を皆が主体的に受け止め、共に祈り、喜んでささげる教会こそ、主に喜ばれる教会でしょう。

9、収入から献金を取り分ける時は、「初穂をささげる」というのが、正しいあり方です。

 つまり、収入を得た時、まず第一に献金を取り分けることによって、収入全体を「聖別」するのです。「初穂がきよければ、全体がきよい」からです。これを逆にして、色々と使ってしまった後でその「余り」を献金するのでは、本末転倒になってしまいます。(これは、週の「初め」の日曜日に礼拝して、一週間を始めるのに似ています。)

(3)献金の意味の広がり                            

 すでに、献金はお金のことだけに終わらない、ということを学びましたが、ここで献金ということの持つ広がりを考えてみましょう。                   

1、献金は、神様への感謝の表われであり、神様への献身の表われです。

 神様はお金がほしいのではありません。神様は私達自身を求めておられるのです。(ローマ12章1節)

 神様は私達を愛し、救いのために御子イエス・キリストを下さいました。イエス様は私達を愛し、救いのために御自分の命を下さいました。この桁外れの愛を受けた私達が、神様への「感謝と献身の応答」としてなすことの一つが献金なのです。つまり、私達がささげるお金に込められた私達の「心」、さらには「全存在」という広がりを常に意識して献金したいものです。

2、献金は「クリスチャン・スチュワードシップ」の一環。

 私達が持っているものは全て、自由に処分出来る私達の「所有物」ではなく、神様から私達に「委託」されているものです。私達はそれを神様のために、生かし用いるという責任と特権を委ねられた「管理人」(スチュワード)なのです。管理すべきものは、賜物・生命・時間・福音の知らせ・財産・献金・家庭・仕事………色々です。献金を正しく行なうことは私達が「管理人」として委託されている大切な使命の一つです。       

3、ある牧師が、「自分の経験として、クリスチャンは色々な罪過ちでつまずくが、お金についてきよい人は、ころんでも必ず立ち上がれる。しかし、お金について汚い人は、立ち直れないことが多い。」という意味のことを語っていました。

 これは面白い見方で、実はこのことが、聖書の中にも幾つも出てくるのです。つまり、聖書の中には罪を犯した人が沢山出てくるのですが、どういうわけかある人は立ち直り、ある人はそうでないのです。例えば、ダビデは、とんでもない罪を犯しますが、悔い改めて立ち直ります。しかしサウルは、立ち直りません。アカンもそうです。ペテロは、とんでもない罪を犯しますが、立ち直ります。しかしイスカリオテ・ユダは、駄目です。どこが違うのでしょうか。神様は不公平なのでしょうか。ところがこれらの人々をよく見ると、立ち直れなかった

人々の犯した罪は皆、献金やささげものに関する罪であったことに気付かされます。ここに重大な教訓があるのではないでしょうか。献金はお金のことに終わらぬ広がりを持っているのです。

(4)十一献金について

 マラキ書3章8〜10節を読んでわかるように、聖書は、私達の収入の十分の一は神様のものであって、私達のものではない、と教えています。それは当然ささげるべき部分であって、もしそれをささげないならば、私達は神様のものを盗んでいることになる。それは神様の祝福を失う罪である、というのです。

 ここから、キリスト教会では、「十一献金」ということが実行されてきたわけです。しかし、十一献金というと、献金の率だけがクローズアップされがちですが、これはそんな形式的なルールなのではなく、そこには深い意味が込められているのです。      

1、十一献金は、決して「教会の税金」ではありません。十一献金の正確な意味は、「私達の全ての必要を満たして下さった神様への、私達の感謝と献身の表現として、私達は『全て』を、つまり『十分の十』を神様にささげます。すると神様は十分の一を取って残りの十分の九を私達の生活のために下さる。」ということです。そして、神様は私達の生活の必要を必ず全て満たして下さる、と約束して下さっていますから(マタイ6章24〜34節)、もしそれで足りなかったら、私達はいつでも神様に必要を訴えればよいのです。 

2、ですからもし、例えば十万円の収入に対して、5千円しか献金しなかったら、私達は神様に対して、「神様、あなたから頂いたのは5万円でした。」と言って収支報告をしていることになります。これが神を欺く罪として、また神から盗む罪として、マラキ書の中で非難されているやり方なのです。

3、けれども、マラキ書では、十分の一をささげるのが私達の責任だとすれば、神様の方はもっとはるかに大きな責任をみずから負っていることを見落としてはいけません。神様は「こうして(十一献金をして)わたしをためしてみよ。」と自信満々の挑戦を私達に突き付けています。もし、神が存在すれば、そして神様がうそつきでなければ、必ず「あふれるばかりの祝福」があるのです。神様はご自身の祝福のみわざを私達に味わわせたくて、こんな挑戦をしているのではないでしょうか。私達の信仰生活に、喜びと力をあふれさせたいなら、また神様のみわざを見たいなら、私達は大胆に神様の挑戦に答えるべきではないでしょうか。私達が答えなければ、それは神様を偽り者とすることにならないでしょうか。

4、「十分の一」は、創世記のエデンの園の「禁断の木の実」のようなものです。

 神様が、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と言われた意味の一つは、園の全ての木が神の所有であることを人間に教えるためでした。それと同じ意味で、神様は「あなたは全ての収入を思いのまま使ってよい。しかし、十分の一はわたしのものだ。」と私達に言っているのではないでしょうか。

5、神様は何で十分の一を取るように決めたのか、という不満を持つ人がいます。しかし待って下さい。聖書の中で十一献金を最初に決めたのは、神様ではなく、人間の側の自発的な申し出でした。(アブラハム:創世記14章18〜20節、ヤコブ:創世記28章20〜22節)

 人間が申し出たのを神様が受け入れて下さいました。それなのに人間の側で自分の申し出を度々破ってきたのです。

6、十一献金は旧約聖書の律法の教えであって、新約聖書の教えではない、と言う方がありますが、新約聖書の中でも主イエスは、マタイ23章23節、ルカ11章42節で十分の一に言及しており、これが旧新約聖書を一貫した教えであることは明らかです。むしろ、聖書から私達が強く教えられることは、新約聖書は十分の一どころか、常に「十分の十」の献身を私達に迫っているということです。

7、ある牧師の主張する「献金の七不思議」を。

 1、主のためにささげるお金がこれほどあったとは。

   (献金を通して家計のドンブリ勘定が正されます)

 2、神への責務を思いの他たやすく出すことが出来た。

   (もっと大変と思ったが意外に神はやさしい方)

 3、神を驚くほど身近に感じた。

   (責務を怠ると、神に対して気まずい)

 4、ささげる「喜び」が予想以上に大きかった。

   (経験しないと決してわからないことです)     

 5、神のために用いた時、思いもよらぬ満足を得た。

   (奉仕と同じ。一番恵まれるのは本人です)

 6、神の愛がどんなに深いものかわかった。

   (こちらは十分の一。でもあちらは命を下さった)

 7、なぜもっと早く実行しなかったか悔いた。

   (しないで損をするのは、教会でなく、神でなく、本人)

8、十分の一とは、何の十分の一か、という問題。

 つまり、給料全額の十分の一か。手取りの額の十分の一か。それを「十一献金」にして、他の「集会献金」や「特別献金」はさらに加えて献金するのか。それとも十分の一を各献金に分散するのか。妻のみがクリスチャンの時、何の十分の一にするのか。………さらに細かい人になると、慈善運動に払ったお金は献金から引いてもよいか。教会に行く交通費は、必要経費として献金から引いてもよいか。………

 答えは単純です。「それぞれが神様によく祈って、自分の信仰の良心に基づいて決めて下さい」

 ただ一つ言えることは、細々とした理由を色々と付けて献金をケチるようなさもしい信仰にならないようにしましょう、ということです。自分の信仰の良心に何等恥じるところのないように、大胆にささげましょう。几帳面な方は、もらうプレゼントやお中元・御歳暮まで全て値踏みして、必ず十一をささげています。

9、十分の一をささげたら、残りの十分の九は好き勝手に使っていいのではありません。

 十一献金の意味は「全て」が神様のものであることを表現していることを学びました。十分の九も、神様の栄光のために賢く充分に生かすべきです。また、これは当り前のことですが、十分の一をささげればもうそれ以上はささげるべきでないというのでもありません。十分の一はいわば最低線の当然のラインであって、ささげるべきものはそれ以上にささげるべきでしょう。(ただしささげるように導かれていないものまで全てささげる必要はありません。念のため。)イエス様が目をとめたやもめは、「持っていた生活費の全部を」(ルカ21章4節)ささげたのでした。「神様がささげよ、というものはいつでもささげます。」という用意が大切でしょう。

10、十一献金は天国への入場料では絶対にありません。

 それでは宗教ではなく、商売かゆすりになってしまいます。これはあくまで、私達が救われた結果として(救われるためでなく)感謝してなすことであり、また、当然のことをしているにすぎないのです。(ルカ17章7〜10節)その当然のことに対して、神様は豊かに報いて下さるというのです。これも神様の恵みです。

(5)献金のささげ方と種類

 多磨教会の献金のささげ方と種類について簡単に説明しておきます。

1、献金には基本的に3種類があります。

   1、十一献金(教会によって、月定献金、維持献金、聖別献金等の呼び方があります)

     〜これは収入の少なくとも十分の一をささげる献金です。

   2、集会献金〜礼拝や諸集会での献金の時にささげます。

   3、特別献金〜その他の「感謝献金」「夏期献金」「クリスマス献金」

          「イースター献金」「会堂献金」「指定献金」等をひっくるめて

          「特別献金」と言います。

2、特別献金について説明します。

 「感謝献金」は、受洗、誕生、入学、卒業、就職、初穂、結婚、出産全快、等々、人生のあらゆる場面での「感謝」を神様に表わして献金するものです。

 「夏期」「クリスマス」「イースター」はそれぞれの時期に神様の恵みを覚えてする献金です。

 「会堂献金」は、現会堂のローン返済のための計画に従って集めている献金です。会堂建設を達成するためには、皆の力を長期に渡って結集する必要があります。ですから、会堂献金は会堂を立てた時点の会員だけが責任を持つのだなどと誤解しないように、皆が自分のこととして受け止めていって頂きたいと思います。

 「指定献金」は、ささげる側で、用途を指定する献金です。例えば、「国外宣教のため」「教会の花のため」「特伝のため」「困っているあの方のため」等々。

3、「十一献金」「特別献金」は、所定の袋に入れて、受け付けにある「神への感謝」の箱に入れることになっています。会計担当が受け取った後、メールボックスに返却されます。

4、牧師は原則として、献金にはノータッチです。つまり、牧師は信徒がそれぞれ幾ら献金しているか知りません。信徒の収入と献金額のチェックなど致しません。献金額を知りうるのは、会計担当者のみです。献金額は、各自が一人一人が祈り、信仰の良心に基づいて主体的に決めるべきことだからです。(ただし相談には幾らでものります)

5、この他、聖書には「誓願のささげ物」というものが出てきます。これは、「神が自分の願いを聞き届けて下さった時にあることをする、あるいはあるささげ物をすると約束すること」(新聖書辞典)であるとされています。

6、神には「初穂」をささげるべきことを学びましたが、もう一つ、神には最善の物をささげるべきことも聖書に教えられています。つまり、神には傷物をささげてはいけないのです。例えばある方々が、同じお金をささげるのでも常に新札を用意するのは無意味なことではないのです。

7、教会は年間予算に従って運営されていますから、出来るだけ定期的に、毎月コンスタントに献金することをお勧め致します。余りに気まぐれにアンバランスに献金することに

よって、会計担当者に不要な心配をかけぬ心遣いもあってもいいでしょう。



 アフター・バプテスマ・クラス  復習プリント  6

                     名前 (          )提出     年   月   日                                      

第6課 献金について

問1、献金の定義を書いて下さい。

問2、献金の精神の中で、あなたが大切だと思うのはどんな点ですか。

         

問3、次の二つの文章を読んで下さい。(1)は私達日本同盟基督教団の「教会員の手引き」からの抜粋で、(2)は福音自由教会の「信徒の手引き」からの引用です。両者は言葉の上では全く反対のことを言っているように見えます。本当に反対のことを言っているのでしょうか。あなたはどう思いますか。どちらに賛成しますか。

 (1)「献金には、神の恵みに対する感謝と神への献身の具体的なしるしとしての意味があります。さらに、神から受けている多くの恵みを他に分かつために、特に、牧会と宣教のわざのために教会員が負担を負うことは、神の御心であり、当然の義務です。」

 (2)「献金を義務として行うことほど、信仰から外れた行為はありません。喜んで悔いのない献げ方をしましょう。(コリント人への手紙第二9章7節)

問4、献金において、私達が陥りやすい過ちは何でしょうか。

問5、献金の意味にはどのような広がりがありますか。

問6、十一献金について学んで、あなたが新しく教えられた点は何ですか。

問7、何かわからなかったことや、ご質問がありますか。                              

                               おつかれさまでした!                           


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