第4課 礼拝を守る

 ここでは、礼拝の意味、その重要性、また礼拝プログラム一つ一つの意味などについて学びます。    

[1]主日礼拝の意味                                        

(1)安息日                                             

ア)旧約聖書の『十戒』の第4戒に安息日の教えがあります。

 (出エジプト記20章2〜17節、申命記5章6〜21節、)

 十戒は聖書の教えの中の憲法のような基本的なものです。第4戒は、一週間7日のうち1日を神に対するきよい安息日として守ることを求めています。

 この安息日は、旧約の時代には一週間の最後の日(つまり土曜日)でしたが、キリストの復活後は一週間の最初の日(つまり日曜日、キリストの復活した日)になりました。ですから私達は、毎週日曜日に礼拝の時を持っています。                                             

イ)私達の用いているカレンダーは聖書が起源だということを考えたことがありますか。

 七曜制は神の創造のみわざに関係があります。

 七曜表は週の初めの日曜日が休日になっています。(ですから日曜日は、Week-endではありません。念のため。)日曜日が休日なのは、一週間働いた疲れをいやすのが第一の目的ではありません。(もしそうなら週の最後の土曜日を休日とすべきでしょう。)このカレンダーが表現していることは、私達は週の初めの日曜日に教会で神を礼拝し、安息日を守ることで一週間を始めるということです。日曜日はもともと礼拝のために「休日」となっているのです。                          

ウ)では安息日の意味は何でしょうか。

 これは色々聖書の中に教えられていて、大変深いものがあるのですが、ごく単純に言うと、これは神御自身のためというよりも人間のために制定されたもので、

1.世界の創造の秩序を表わしている。

2.神が私達を救って下さったことを覚えるためにある。

3.私達に真の安息を教えるためにある。

4.神が祝福を与えるためにある。

5.神のきよさによって私達が聖別されるためにある。・・・というようなことが言えます。

(2)信仰生活の基本中の基本                

ア)聖書は、信仰生活は教会生活であると教えています。

 ここで言う教会とは、時代と場所・民 族・文化を超えた、神がこの世より選び、召し出し、救い、聖別して下さった「救われた罪人 の集まり」のことです。          救いには、「私が神に救われた」という個人的な面もありますが、えてして見落としがちなのは、救いの集団的な面です。「私が救われた」ということは、私が上記の教会に加えられ、キリストを頭とするキリストの体の一部となり、神の民の一員となり、神の家族の一員となり、………(聖書は色々な表現をしていますが)そういう一つの集団に永遠に加えられたということなのです。これは大きな特権であり、同時に大きな使命と責任を伴うことです。              

イ)信仰生活の中心は礼拝です。                            

 これは強調してもし過ぎることのない大切なことです。信仰生活の中心は礼拝、教会生活の中

心は礼拝、私達の人生の中心は礼拝、人間存在の根本は神礼拝なのです。礼拝において私達は神を知り、神と交わり、神のことばを聞き、神を賛美し、感謝し、神に祈り、神の平安と祝福を受け取ります。   

 クリスチャンが他の何を一生懸命にしても、教会が他のどんな行事を熱心にしても、礼拝が正しく守られなければ最も肝心要の一事をおろそかにしていることになってしまいます。 礼拝には定まった一定の形式があるわけではありません。聖書の教えはむしろ霊的・精神的なものです。ですから私達は、私達の礼拝をより真実な礼拝、より神様に喜ばれる心からの礼拝、「霊とまこと」(ヨハネの福音書4章24節)による礼拝に近付けるために不断の努力を忘れてはならないのです。                

(3)礼拝の意味   

 全てを言い尽すことはとても不可能ですが、ここでは基本的なことを列挙しておきます。 

                  

ア)神様を神様として認める時

 礼拝は、私達が神様の御前に出て、神様を伏し拝む時、神様を神様として、私達の主として認める時です。また、その神様が私達に、安息日を守り、礼拝をささげるように命じているわけですから、もし私 達が主日礼拝を軽視して、これをおろそかにするなら、私達は、私達を愛し、イエス・キリストの命を 代価として救って下さった神様に対して、背信の罪を犯すことになります。

イ)イエス・キリストの復活を記念する時

   

 主イエス・キリストは、私達の罪を身代りに負って、十字架で死なれたばかりでなく、私達の罪の報酬である死をも打ち破って復活して下さいました。復活によって私達の永遠の救いが成就されたので、これを記念して礼拝は復活の日、つまり日曜日に守られるようになりました。これは私達の救いの達成がなされた日なのです。礼拝の時、私達はこれを覚え、記念し、感謝し、宣べ伝えるのです。                                    

ウ)神様に感謝をささげる時(詩篇103篇1〜5節)

 礼拝は、私達を愛し、救い、いつもみ心に留め、正しく守り導いて下さる神様に感謝を捧げる時です。 私達は礼拝をささげる時、イエス様の私達のための死・復活を新たに覚え感謝をささげます。また、過ぎ去った一週間を振り返って、与えられた主の祝福・恵みを思い感謝をささげ

ます。更に、今までの人生や今後も保証されている永遠の命に備えられた神様の祝福・恵みを思い感謝をささげます。                                           

エ)神のみことばを受け止め、それを自分の生活の中に生かす時

 例えば、宇宙ロケットが打ち上げられた後、常に軌道のチェックと修正が必要なように、天の御国に向かう私達も、自分の生活・歩んでいる道のチェックと軌道修正が必要です。その物差しは「神のみことば」です。この作業は、もちろん毎日の個人的なディボーションによってもなされるわけですが、同時にそれが独りよがりのものに陥らないように、礼拝の中で語られる神のみことばによることが不可欠です。また、この作業は個人的になされると共に、神の民の共同体として、集団的にもなされなければならないものです。ある方は「神のみことばは、共同体としての神の民に与えられたのだから、共同体としての神の民の中で読まれなければならない」と言っていますがその通りです。

            

オ)神を自分の生活の中心としていることをあかしする時

 私達は、礼拝をささげるたびに、「今日から始まる一週間を、自分は神と共に、みことばに従って、神 を第一として生きるのだ。」と決心することが大切です。            また私達が礼拝を守っていることは、まだ神様を知らない人達に対して、神を信じる者の生き方をあかしするものとなります。もし、私達クリスチャンが、主日礼拝を大切にしないなら、人々は、「礼拝というのは、自分の都合の良い時だけ守り、そうでない時は守らなくていいのだ。神を礼拝することよりももっと大切なこの世の楽しみや人付き合いが沢山あるのだ。」という印象を受けるでしょう。これでは神様をあかしし主の栄光を現わすどころか、神様を辱めることになってしまいます。

カ)霊的安息を味わう時

 礼拝において、みことばを通し、交わりを通し、祈りや賛美を通して、神が十字架と復活の救いを通して与えられた勝利のもたらす霊的安息を味わいます。                                      

キ)信仰の訓練を受ける

      

 イスラエルの民は、礼拝儀式を守ることで、自分達の神に対する信仰を失わないようにと教えられました。私達は、一人でいても自分の信仰は大丈夫、と思うかも知れませんが、聖書に記されている人間の姿を学ぶ時、私達は自分で考えているよりもずっと弱く、つまずきやすく、神と人の支えを常に必要としていることを教えられます。私達は、キリストにあってもっと強められるために、礼拝・聖礼典(聖 餐式と洗礼式)・兄姉との交わりを通し、また祈りや奉仕を通して具体的な訓練を受ける必要があります。

                     

ク)肉体的な安息のため

 「聖霊の宮」である私達の肉体にとって、正しい休息を取ることも、大切なことです。神は7日で一週間というサイクルを持つものとしてこの世界を創造されました。 ですから週に1日を安息日として礼拝に当てることはこの世界の秩序に調和して生きる生き方なのです。

 忙しいからと言って、この安息を取らずに働き続けることは、一時的には仕事がはかどったように見えても、結局は疲労を蓄積したり、体をこわしたりしてしまい、長い目からは少しも得にはならないものなのです。(第二次大戦中英国で、週に一日休むのと、無休で働き続けるのと、どちらがトータルの生産量があがるか、という研究がなされ、週に一日休む方が結局沢山作れる、という結果になった、という話を読んだことがあります。)  

                                    

[2]礼拝を守る心がまえ                           

(1)礼拝は「厳守」・・・しかし「死守」とまでは言えない

 このように信仰生活の中心であり、極めて大切な礼拝ですから、私達は万難を排して礼拝を「厳守」する努力をし、私達の生活の中で礼拝に高い優先順位を与えなければなりません。しかし、では礼拝を守るために、他の全てを犠牲にしなければならないか、(例えば、病気の時でも這ってでも教会に来るべきかどうか。仕事のある時はどうか。団地の清掃日にはどうするか。家族旅行の時は。子供の授業参観は。等々・・・。)というと、ここで私達は聖書の教えていることを注意深く確認しなければならないのです。

1.旧約では安息日を守ることは至上命令の一つであり、破れば死罪でした。しかしこれはイスラエルが「キリスト教社会」であったことを考慮しなければなりません。つまりこの社会では誰にとっても安息日を守ることが可能であったのです。(守るか守らないかがその個人の自由に属したのです。)

2.新約でも聖書は、礼拝を大切にすることを教えています。しかし例えば、奴隷は安息日を守れませんでした。(守れば、それは彼らにとって即死を意味したでしょう。)しかし聖書はそれを少しも非難していないと思います。

 するとこういうことになるでしょう。

 礼拝は「厳守」です。守れる状況にあるならば守らなければなりません。守れるのに守らないのは大罪です。また守るために最大限の努力をし、普段から知恵を用いて工夫をしなければなりません。 しかし、守れない状況にあるならば守れなくてもそれはやむを得ないのです。死んでも守れと、つまり「死守」とまでは聖書は言っていないようです。     

※歴史の中では、安息日を「死守」した人達もありました。例えば、イスラエルで、安息日に攻めて来た敵を迎え撃たずに礼拝を続け、全滅したこともあります。          映画「炎のランナー」のエリック・リデルは、オリンピックの晴れ舞台での競技を、それが日曜日だという理由で辞退し、別の競技に出て優勝しました。これは後世に残る証詞となりました。

 では守れる状況にあるのか、それとも守れない状況にあるのか、つまり日曜日に他の事情がある時、その事情と礼拝とどちらを優先すればよいのか、ということになりますが、これは、本人が神のみ前に祈って、個別に信仰の良心をもって決断する以外に無いのです。単純に形式的には決められません。ある人は、礼拝を守るために仕事を変えます。それは立派なことです。しかし全ての人がそうすべきだとは言えません。                  

 しかし、最後に確認しておきたいことは、私達は礼拝を大切にし、何とかしてこれを守るために最善を尽くさなければならない、ということです。日曜日に病気にならないように、普段の健康管理をすべきですし、日曜日が仕事に当たらないように努力を払うべきです。団地の清掃日に、自分の分を朝早く終えたり、別の日に人より多くをすることで礼拝を守る人もいます。このように普段から自分は礼拝を大切に守っていることを周囲の方々にもあかししているならば、本当に礼拝を休まなくてはならない日というのは大抵の人にとってはそう多くはないのだということも考えて下さい。くれぐれも「どうせ私は礼拝を守れない状況にあるのだ」と初めからあきらめてしまわないように。「どうせ言っても通らないのだ」と恐れに負けてしまわないように。神のみ心は、皆が礼拝を守ることなのですから。 

                                           

(2)礼拝を守る具体的な心がまえ                  

ア)準備と当日の心がまえ(思いつくまま個条書きにしてみました。)

1.礼拝のために祈りましょう。祈祷会では必ず礼拝のために祈ります。自分が礼拝を守れるよう に。神様に喜ばれる礼拝となるように。奉仕者等のため。              

2.土曜日は「備え日」です。早く寝る、明日の礼拝のテキストを読む、賛美に目を通す、等の備 えをしましょう。夜更かしして礼拝で寝る、というのは神様に対して失礼です。      

3.遅刻をしない。礼拝は「前奏」から始まります。そして後述のように、一つ一つのプログラム に意味があります。全てのプログラムを大切にして下さい。           

4.5分前には席に着き、神の前に静まって礼拝の備えをするようにしましょう。

5.礼拝が整えられるように、他の方のためにも配慮しましょう。特に新来会の方が不自由しない ように当日何かの奉仕に当たっている時は、奉仕が全う出来るように祈り深く臨みましょう。             

イ)礼拝を守れない時

1.牧師・役員・他の教会員に連絡して、必ず牧師にまで連絡が届くようにして下さい。

 神様の家族が、兄弟姉妹の誰かがいないことに必要以上の心配をしないようにして下さい。特に、事前に来れないことがわかっている時は、あらかじめ出席表等に記入しておくようにして下さい。

2.休んだ礼拝を補う努力をする。

 その日の礼拝のテープを極力聞くようにして下さい。同じみことばによって養われることは、神の家族として重要なことです。

3.休んだ当日も、個人礼拝を行なうなどの努力をして下さい。

 賛美し、聖書を読み、祈りましょう。

4.旅行などの時は、旅行先にある教会で礼拝を守る努力をして下さい。牧師にご相談下さい。

                     

[3]礼拝プログラムの内容

 これについては、以前仕えていた教会の週報の「ヘルモンの露」に連載したものがありますので、別紙抜粋を参照して下さい。  

 一つここで確認しておきたいことは、礼拝のプログラムの内容には二つの要素があるということです。 

1.神から人へという方向を持った要素。

2.人から神へという方向を持った要素。

この二つの要素がダイナミックに織り成すのが、礼拝のドラマチックなプログラムと言えるでしょう。 一つ一つのプログラムがどちらの要素に属するか、考えてみて下さい。


《参考資料》

《ヘルモンの露20》(礼拝を考える1)16世紀、ルターらによって始まった宗教改革の「三大原理」は、@聖書のみ、A信仰のみ、B聖徒の交わりとしての教会(万人祭司)であった。宗教改革者達はこれらの原理を掲げて、当時超巨大な勢力であったローマ・カトリック教会の誤りと対決したのである。 このうち、私達が礼拝ということを考える上で見落しがちなのは「万人祭司」の原理であると思う。 私達は礼拝に、御客様とか見物人として加わっているのではない。私達は、一人一人が「祭司」なのである。主体的に神の御前に歩み出、賛美や祈りや献金の捧げものをし、人々の為にとりなしの祈りをする大切な役割を担っている。 例えば、一人が遅刻をすれば、一人の祭司を欠いたまま礼拝が始まってしまう。それでは「万人祭司」が泣くのである。 礼拝に関わる「自分」の存在の重みをもう一度見直してはどうだろうか。  


       

《ヘルモンの露30》(礼拝を考える2)「『前奏』について」               

★クリスチャンになりたての頃、礼拝というのは招詞から始まるのだと思っていました。「前奏」というのは、礼拝が始まる前のBGM位に思っていたのです。 ★しかし実は「前奏」は礼拝プログラムの一部す。つまり「前奏」から礼拝は既に始まっています。 ★この点を誤解しますと、例えば、司会者が開祷で、「神様、これから始まる礼拝を祝福して下さい。」などと祈ったりすることになります。 これでは「前奏」も「招詞」も「賛美」も「主の祈り」も、全て「前座」にされてしまいます。 ★「前奏」の時に神様の御前に静まり、黙想することは、礼拝の営みの大切な一部なのです。この時、一週間の歩みを振り返り、神様の御恵みを感謝し、罪を悔い改めます。そのようにして、礼拝の初めに自らを整えるのです。これをいい加減にしてしまっては、礼拝全体がいい加減なものとなってしまわないでしょうか。 


                          

《ヘルモンの露33》(礼拝を考える3)「『招詞』について」                

★「招詞」は「招きの言葉」です。★礼拝で最初に発せられる言葉は、神様の招きの言葉です。神様が私達を礼拝へと招いて下さるのです。★ここに既に、「ただ恵みのみ」というキリスト教の根本的な真理が表わされていると言えるでしょう。私達は本来なら神様の御前になど招かれるはずのない小さな人間に過ぎません。実際、もし主イエスの救いの実現以前の旧約の時代なら、私達は礼拝に加わることなど許されはしませんでした。しかし恵み深い神様は、私達を愛し救って下さり、そして主の日を安息日と定めて、「さあ私の所へ来なさい。私を礼拝し、交わりなさい」と招いて下さっています。この招きがあるからこそ、私達はありのままの姿で神様の御前に進み出ることができるのです。★ユダヤ人達が神様の招きを拒んでしまった(マタイ22章1〜14節)のは私達への大きな警告です。神様の招きを感謝し、信仰を持って答えたいと思います。                             


《ヘルモンの露34》(礼拝を考える4)「初めの『賛美』について」       

★「招詞 神様からの招き)に私達が信仰をもって応答し、神様に近付こうとする時、最も相応しい信仰表現は、まず賛美でしょう。詩篇100篇4節に「感謝しつつ主の門に、賛美しつつその大庭に入れ」とあります。★賛美は、神様の恵みに対する私達信仰者の応答であり、感謝のささげものです。全ての栄光を受くべき神様に、私達の喜び・感謝・献身を捧げ、また、私達の魂を神様にまで引き上げるのが初めの賛美でしょう。★ですから賛美は人に聞かせる以前に、神様に向けられるものです。口で賛美すると同時に、心でも賛美するように、歌詞を充分味わいつつ神様への祈り心をもって賛美したいものです。★神様は私達の賛美を住まいとされる方です(詩篇22篇3節)。私達の賛美の中に親しく臨在して下さるのです。ですから賛美の充実は信仰生活の充実に密接に関わります。 「主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい」(エペソ5章19節)                                          


《ヘルモンの露36》(礼拝を考える5)「『主の祈り』について」             

★「主の祈り」は、主イエス御自身が、「こう祈りなさい」と祈りの言葉を私達に教えて下さったものです。(マタイ6章9〜13節)ここにバランスの取れた祈りの精神の奥義が教えられています。★呼びかけ、神の栄光と御国を求める祈り、そして私達の日常的、倫理的な信仰生活に関わる祈りへと整然と展開しています。その広がりは天上から地上へ、永遠から日常へ、全世界から私個人へという全ての世界を包み込んでいます。★ですから、この祈りの全てが自分自身の心からの願いとなるように、味わいつつ祈りたいものです。★「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく」では黙ってしまい、次の「われらの罪をも赦したまえ」だけ急に大声で唱える、というような取捨選択(?)をしてはいけません。イエス様は、放っておけば、私達の祈りが自分勝手な願い事ばかりになるのをよく御存知であったので、このような祈りの模範を与えて下さったのではないでしょうか。                                       


《ヘルモンの露37》(礼拝を考える6)「司会者の『祈祷』について」

★「祈祷」は司会者によって捧げられる、公の祈りの一つです。祈りの言葉は司会者によって発せられますが、それは会衆一同の心が一つになった祈りとして神の御もとに昇るべきものです。ですから祈りの間会衆はボンヤリするのではなく、司会者の祈りに心を合わせ、心中(または小声で)アーメンを唱えつつ、思いを神に集中すべきです。祈り手も祈りのために自ら心を整える必要があります。★以下は公の祈りに関するスポルジョンの言葉です。★公の祈りは、礼拝における最も重要な、最も有益な、最も栄誉ある部分の一つである。★私達は公の祈りの間、全能力を集中し、全ての人がそれによって生き生きとするまで引き上げられるべきである。命の無い祈りは、人にとっては退屈であり、神にとっては嫌悪すべきことである。★祈りは心の問題である。祈りにおいては本気で真実でなければならない。★あなた方の全霊を祈りに打ち込め。  


               

《ヘルモンの露43》(礼拝を考える7)「『使徒信条』について」             

★使徒信条はキリスト教会の最古の信条の一つで、教派に関わりなく広く普遍的に受け入れられて基本的な信条です。★その起源は1世紀末から2世紀中頃のいわゆる「使徒後時代」にまでさかのぼり、ローマ教会の洗礼式における受洗者の告白にあったと言われます。★以来1,800年余りに渡って延々と、この同じ使徒信条が世界中のクリスチャンの口に唱えられ続けてきました。その歴史を貫く営みの積み重ねを想うと、感動を禁じ得ません。私達は時代を超え、空間を超えて、同じ一つの信条を告白する兄弟姉妹なのです。 ★歴史の中では、この信条を唱え、イエスを主と告白することが即生命を失うことにつながった時代も多くありました。★今日平和な日本で何気なく唱えてしまう使徒信条ですが、過去の先輩の兄弟姉妹が命がけで告白し、血を流しつつ受け継いできた貴重な信仰の遺産であることをも深くかみしめたいものです。                                  


《ヘルモンの露46》(礼拝を考える8)「再び『賛美』について」             

★ダビデは、神様のご臨在の前にある満ち足りた喜び、永遠の楽しさを知っていました(詩篇16篇11節)。★聖書の中で、賛美はこの神様のご臨在と深く関わっています。「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22篇3節)。黙示録には、天上では神様のご臨在を賛美が包んでいる光景が描かれています。★神様のご臨在の前に出るために聖書の命じる方法は、「感謝と賛美」です(詩篇100篇) ★これを知ると、賛美がどれほど大切な時であるかがわかってきます。★賛美は皆が集まるまでの時間の穴埋めでも、雰囲気作りでもないのです。極めて重要な礼拝の構成要素です。★更に神様のご臨在を毎日の生活の中にまで望むならば、賛美をも普段の生活の中に広げましょう。 神様は、賛美をもってみ前に近付き、主を礼拝する者を喜んで受け入れようと待ち望んでおられる方なのですから。  


              

《ヘルモンの露51》(礼拝を考える9) 更に『賛美』について」

★「あらゆる時に賛美」より。★ある韓国の共産主義の男の話。クリスチャンの奥さんを迫害し、殴る蹴るの乱暴をしていました。しかし奥さんはその度に『主よみもとに近付かん』を賛美するのでした。その後朝鮮戦争で捕虜となったこの男、助かりたい一心で「私はクリスチャンです」と申し出ます。すると、「何か賛美歌を歌ってみろ」と言われて、何も知っているはずもなかったのですが、突然、奥さんの歌っていた『主よみもとに近付かん』を思い出して歌い助かったのです。この人は今何と牧師になっているそうです。★奥さんの『賛美の力』です。★「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」(詩34篇1節)とあります。★これはダビデが四面楚歌の逆境のさ中に歌ったのですから一層重みを増します。★「賛美は直き者にふさわしい」★直き者とは神との正しい関係にある者です。イエス様を信じるなら、いつも賛美のできる人になれるのです。 


《ヘルモンの露54》(礼拝を考え10)「『聖書』朗読について」              

★ある教会での出来事。礼拝のプログラムを学んでいる時、「もし万一迫害の時代が来て、礼拝全項目の内一つだけは許すということになったとしたら、何を削り何が残るか?」という話になりました。★皆で熱い議論となり、一つ一つ消していって遂に最後に、『聖書朗読』を残すべきだという結論になったそうです。★皆様なら何を選びますか?★確かに、神の民の公式な集まりの場としての礼拝では、神のみ言葉そのものを共に聴くということこそ第一になされるべきだという考え方はうなずけます。★『説教』が重要なのはもちろんですが、その重要性もみ言葉が大切であるという裏付けがあればこそです。み言葉を受け止めることの大切さに比べれば、説教はいわば「サシミのツマ」のような役割であるとさえ言えるでしょう。★『聖書』朗読の重みを再確認しましょう。


《ヘルモンの露56》(礼拝を考える11)「『説教』について」   

★日曜日教会に行くのを「説教を聞きに行く」と表現するとすれば、そこには大変な誤解がある。「神様を礼拝に行く」というのが正しい態度であろう。この両者の姿勢には大きな違いがある。★礼拝説教を生み出すのは、神と説教者と会衆の三者共同の作業である。★説教者は自分の人生論や所感を語るのではなく神からのメッセージを語るべきである。従って説教とは、終始聖霊の導きを祈り求めなければできない営みである。★説教は全て忘れ去られてもよい。神のみ言葉だけが会衆の内に生きて働くのが理想であると考えている。従って自分の説教をほめられてもちっとも嬉しくはない。それよりも、礼拝を通して神のみ言葉が正に神のみ言葉として受け止められ、それが生きて働いて実際に実を結ぶのを見るのが私の唯一の望みである。★そのためには是非、会衆も聖霊の語りかけを祈り求めつつみ言葉に取り組んで頂きたい。神と説教者と会衆の三者が共同して初めて真の礼拝説教が生まれるのであるから。      


《ヘルモンの露57》(礼拝を考える12)「『説教』後の『賛美』」             

★礼拝プログラムの中には、賛美が五つ入っている。賛美であるという点では共通しているが、それぞれ異なった意味合いも担っている。★説教後の賛美は、『聖書』と『説教』によって神から人へ宣べ伝えられたみことばに対する、人から神への応答という性格を担っている。★決して眠気覚ましでもなければ、退屈な説教が終ったという合図でもない。★従って説教後の賛美は、出来る限りその日のみことばや説教につながるものが選ばれている。歌詞をよく味わいながら、祈り心をもって、神に向かって歌うべきである。★このようなことが出来るようになると、礼拝プログラムのダイナミズム、すなわち、「神から人へ」と「人から神へ」また「天から地へ」と「地から天へ」という交流の生きた現実が見えてくるようになる。すると平板で退屈に見えたプログラムが、実は山あり谷ありのドラマを構成していることに気付かされるのである。★説教後の賛美は、神への応答であり、祈りである。                             


《ヘルモンの露61》(礼拝を考える13)「『献金』について」               

★献金、それは礼拝プログラムの中で、ある意味で最も私達自身の現実と直面させられる時かも知れません。★時々、献金は額が問題ではないと言われます。しかしそれは、心が大切だということと、人との比較をしてはいけないということを意味しているのであって、額を考えない無神経・無自覚な献金で良いと言っているのでは決してないのです。 ★何故なら、献金は神様に対する私達の意志表示だからです。★ですから献金は、律法や戒律の視点からするのではなく、ましてや説教の聴講料や教会の会費としてでもなく、喜びと感謝の信仰から出発して、心からの信頼・献身・服従・奉仕の心をもって神様御自身にささげたいと思います。★確かに聖書は十分の一献金を教えてはいますが、それは神様からの命令である以前に、元来人間の側からの申し出であったという点を大切にしたいのです。★ですから献金の時には、どれだけを、誰に(神様に)・何のためにささげようとしているのかという明確な自覚をもって祈りと感謝のうちにささげようではありませんか。        


《ヘルモンの露62》(礼拝を考える14)「『感謝祈祷』について」

★『感謝祈祷』は、単に「献金の感謝」であるのではなく、礼拝プログラム全体の中で「礼拝の感謝」という位置付けを担っています。これが『献金』とセットになっているのは、どちらも神様への「応答」であるからです。★従って『感謝祈祷』には、その日のみことばで教えられたことの表白や、導かれた決心の表明といった神様への信仰の応答が盛り込まれます。(説教の復習ではありません。みことばを与えられた者の神様への応答です。)★時に、少々変な言い方ですが、説教よりも感謝祈祷に恵まれた、というようなことを耳にしますし、私も、説教の後になされる感謝祈祷の深さに励まされたり、改めてテキストのみことばの深さに気付かされることがあります。★そのようにして「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしくわたしのところに帰って来ない」という証詞を立てるような祈りこそベストでしょう。★これが的確になさた時の礼拝は、実にすがすがしく嬉しい、生きたものになるのです。        


《ヘルモンの露64》(礼拝を考える15)「『頌栄』について」

★「頌栄」「祝祷(終祷)」「奏楽」は、礼拝プログラムの単なる終り(ヤレヤレやっと終ったか)ではなく、クライマックスであり頂点(大切な大切な締めくくり)である。★プログラムの他の全ての部分が本当に生きていたか否かは、私達がこの頂点に登り得たか否かで明らかとなる。★一つ一つのプログラム項目において、交互に神から人へ、そして人から神へと交流した礼拝であったが、ついにこの末尾において、三位一体の神への頌栄へと高く高く登り詰めるのであり、そしてそれが次の祝祷(終祷)として豊かに祝福をもって下って来るのである。★この最後の瞬間まで神聖に守り得てこそ、「神礼拝」と呼び得るものになるのである。★頌栄に、信仰こもる賛美の高まりを期待したい。                        


《ヘルモンの露66》(礼拝を考える16)「『祝祷』(『終祷』)について」         

★「祝祷」とは神の祝福を求める祈祷である。★「頌栄」において高く天に登り詰めた礼拝は、「祝祷」 終祷 において豊かな祝福となって下って来る。★礼拝をここまで進めてきた各人にとって最も神聖な瞬間となるように心すべき時である。★祝福を与えるのは、祝祷をささげる人ではなく神様ご自身である。しかし祝福は自動的に来るのではなく、私達の信仰の姿、つまりここまで霊とまことをもって進めてきた礼拝にふさわしく与えられるのであると思う。従って祝祷はその礼拝の総決算である。★礼拝は終りに近付き、今や私達は信仰の杖一本を握り締めてこの世の旅路に再びおもむこうとしているのである。その時私達が最も必要とするものは何であろうか。「我らの主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わり」これなのである。★正に私にはこれが必要なのだ、という切実な告白をもって、また神様はそれを与えて下さるのだ、という熱い信仰をもって、主のみ前に頭を垂れたい。                  


            

《ヘルモンの露68》(礼拝を考える17)「『後奏』について」               

★一つ一つ考えて来た礼拝プログラムの項目もいよいよ最後である。★「祝祷(終祷 において神様から頂いた祝福を握り締め、携えて私達はまた一週間のこの世の旅路に出て行く。その最後の心備えをする時が『後奏』であろう。★たった十秒か二十秒の黙祷であるが、この時私達の胸に去来する思いは何であろうか。★私は、この時考えることがその人のその時の状態を最もよく表わすのではないかと思う。この時祈る一言がその人の一番願っていることではないかと思う。★この時私達の思いを支配しているのは、礼拝をなし得たことへの感謝だろうか。今日頂いた恵みに燃える熱き思いだろうか。霊の糧にリフレッシュされた新鮮な信仰だろうか。★それともいまだ明日への不安や恐れ、赦されない罪の思い、また礼拝が終ったとたんに神への無関心が心を占めるのだろうか。★『後奏』のひとときの思いでその一週間は決するのではないか。


《ヘルモンの露69》(礼拝を考える18)「『紹介・報告』について」     

★『紹介・報告』が礼拝に続いて置かれているのは何故であろうか。★『報告』を礼拝プログラムの中に(つまり頌栄の前に)置く教会もあるが、私達の教会では祝祷の後に置いている。これについては、報告も神礼拝の内と考えるか、そう考えないかの問題がある。★この問題はさておき、イエス・キリストは、聖書の教えは「神を愛し、人を愛せよ」と要約されると教えられたことを考えたい。★すると、私達の礼拝の中で「神を愛する」ということが表わされているのは当然として、「人を愛する」ということは礼拝のどこに表わされるのであろうか。★これを思うと、たった今神を愛する礼拝をしたばかりの者が、直後の『紹介・報告』になされる、新来会者の歓迎、兄姉の消息、祈祷課題に無関心・無頓着であって良いはずがないのである。 ★『紹介・報告』とは、「神を愛する」と同時になされるべき「人を愛する」ということに深く関わるプログラムである。★これは単なる事務連絡ではなく、神のみ前での報告であり、神への報告でもあり、この中に神への願い、感謝、賛美、悔い改め、とりなし等々、教会のもろもろの姿が込められているのである。★『紹介・報告』は礼拝の後にあるが、礼拝の心は『紹介・報告』まで、更にその後の交わりまで、そして更にその後の生活までと心掛けたい。


《ヘルモンの露70》(礼拝を考える19)★「安息日の変更」という問題がある。旧約では土曜日であった安息日が、なぜ新約では日曜日にかわったのか、という問題である。★これは私達が礼拝というものをいかにとらえるかということと深く関わっている。★律法のもとにあった旧約では、一週間を神に従って生活することが礼拝の前提条件であった。従って礼拝は週の終りにあったのである。しかし誰が一週間の歩みを主に従い通して全うすることができるだろうか。誰もないのである。★その解決は、神の一方的な恵みにしかない。★だから恵みのもとにある新約では、一週間の歩みの中で礼拝が先行するのである。「わざ」よりも「恵み」が先行する、という神の救いの性格が、見事に「安息日の変更」という事実にも表わされていたのである。★すると礼拝から始まらない一週間とは何だろうか。それは「わざ」の一週間になってしまうのではないだろうか。★クリスチャンにとって、礼拝とは、一週間の全てに先立つ神の恵みであり、ここに私達の生涯が全て神の恵みから始まることが表わされている。礼拝は全ての「始まり」である。大切にしたい。



アフター・バプテスマ・クラス  復習プリント  4

        

          名前 (            )提出    年   月   日                    

第4課 礼拝を守る

1、礼拝にはどんな意味がありますか。

2、礼拝を守るということを考える時、あなたは今の生活の中で礼拝にどの程度の優先順位を与えていると思いますか。また、これからの目標としては、どのようにして行きたいと思いますか。         

3、礼拝プログラムの二つの要素は何ですか。各プログラムがそれぞれどちらの要素に属するか分類してみて下さい。

4、プログラムの内一つを選んで、そのプログラムを行なう上での心構えを書いて下さい。

5、私達が、礼拝に関して、陥りがちな欠点は何でしょうか。個条書きにして下さい。

6、私達の礼拝をより充実したものとしていくためには、どんなことをしていけばよいと思いますか。

7、何かご質問等がありますか。


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