第10課 偶像・この世との関わりについて      

                                              

 「クリスチャンになったら、葬式やお墓はどうなるのですか」「仏教の葬式にはどのようにのぞめばよいですか」「酒・タバコはやめなければいけませんか」「七五三は?」………このような質問にしばしば出会います。実際、私達は「神の民」となっても「この世」に生きているわけですから、このような実際的な問題にいかに対処するかは切実な問題です。この課では、このような問題を二つのテーマに大別して考えます。

1、偶像に対してどのような態度をとるか、

2、この世の中のもの・習慣・儀式・等々についてはどのような態度をとるか、

・・・聖書の教える基本を学んでおきたいと思います。

                           

〔1〕偶像について

 ある方が、「神々が沢山あるように見えても、2種類の神しかいない。それは人間を造った神と、人間が造った神だ」と言っています。私達は、聖書が教えているように、この世界全てと人間をお造りになった創造主なる唯一の真の神様を礼拝します。これに対し、人間が考え出して造った何かを礼拝することが「偶像礼拝」です。これを聖書は、明確に禁じています。

※「偶像」になりうるのは、他の宗教の神々だけではありません。創造主なる神以外のものを拝んだり、神以上に大切にすることは、全て「偶像礼拝」となり得ます。例えば、もし、お金が神様よりも大切な ら、お金がその人の「偶像」なのです。もし、自分が神様よりも大切なら、自分がその人の「偶像」な のです。と言ってもこの場合、お金や自分を大切にしてはいけないのではありません。もちろん大切に すべきです。しかしそれを「神様以上に」置いてはいけない、ということです。

 私達はこの世での生活の中で、色々な偶像に出会うわけですが、それに対して具体的にどう対処するかを考える前に、聖書から、何故偶像を礼拝してはいけないのか、ということについて考えましょう。

(1)偶像礼拝をしてはいけない理由

1、私達が「神」とすべきなのは、唯一の真の神のみであるから。(出エジプト記20章3節)

 私達が神とし、礼拝すべき方は、唯一の真の神のみです。この神は出エジプト記20章3節にあるように、私達を罪と死の奴隷状態から救い出して、ご自分から、恵みによって私達の神となって下さったのです。

 ここで、「お前が神である私に従えば、お前の神となってやろう」と言ってはいないことに注意して下さい。自分ではどうすることも出来ないでいた私達のために、まず神様の側から、御子イエス・キリストを遣わし、十字架の救いによって、私達を救い出して下さったのです。このことを知ってなお、この方を捨てて他の神々を求めるべきでないのは当然でしょう。

2、唯一の真の神は、偶像を造り、拝み、それに仕えることを禁じておられる。(出エジプト記20章4〜6節)

 私達は、創造主を礼拝すべきであって、被造物を礼拝してはいけないのです。

 このことには、二つの面があって、

1、人間が自分の手で造った金や銀や石などの像を神と考えてはいけない(使徒17章29節)ということでありますし、 

2、本当の神を礼拝するにしても、霊である神(ヨハネ4章24節)を、被造物を用いて何かの形にしてそれを礼拝するようなことをしてはいけない、ということです。(申命記 4章14〜19節)

 この教えには、これを破った場合の罰則と共に、「千代にいたる祝福」が約束されています。それほど大切な教えであることをよく覚えて下さい。

※このために、いわゆる「聖画」や人形まで嫌い、否定する潔癖な方もあります。しかしそこまでこだわる必要もないでしょう。要は、神以外のものを「礼拝」してはいけない、という点にあります。

 この点例えばカトリック教会には、マリヤ礼拝や聖人崇拝、礼拝の対象となる様々な「像」がありますが、それは聖書の教えに従う私達には到底受け入れられないことです。

3、本当の神でない偶像は、力も無く、空しく、それを礼拝することも空しいから。

 聖書は偶像の空しさを繰り返し述べていますが、その内二つの箇所を見ておきましょう。

ア)偶像を作ることの空しさ(イザヤ書44章9〜20節)

 偶像の神を作る者は、ただの人間に過ぎないのであり、「腹がすくと力が無くなり、水を飲まないと疲れてしまう」。そんな人間の作った偶像に力があるわけがないことはわかりきったことではないか、とイザヤは言います。そして、その材料をよく見れば、ただの木ではないか。それは実は「たきぎ」にして燃やしているのと同じ材料ではないか。そん

な偶像を拝むのは、たきぎやその灰を拝むのと原理的には同じではないか。それを愚かなことだと思わないのか。イザヤの言うことは、冷静に考えれば実にもっともで当り前のことでしょう。

イ)偶像の空しさ(詩篇115篇4〜8節)

 この詩篇の作者は、偶像の空しさについて八つのことを述べています。        1、材料は銀や金で、人間の手で作られたものである。

 2、口があっても語れない。

 3、目があっても見えない。 

 4、耳があっても聞こえない。

 5、鼻があってもかげない。 

 6、手があっても触れない。

 7、足があっても歩けない。 

 8、のどがあっても声をたてることも出来ない。

 このような偶像は、それを作った人間にも劣っているではありませんか。

 実際、人間が運ばなければ動けず、人間が掃除しなければほこりまみれになったままです。エレミヤは、「それはきゅうり畑のかかしのようなもので、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」(エレミヤ書10章5節)と語っています。

 しかし創造主なる神様は違います。(詩篇94篇8〜9節) 私達人間に耳や目を作って下さった方は、聞き、見ておられる神様なのです。

4、偶像を礼拝する罪は「姦淫」の罪に等しい。(エレミヤ3章6〜10節)

 聖書が、偶像礼拝を「淫行」「姦通」と表現しているところが沢山あります。それは、神様と私達の関係を結婚関係になぞらえて考えることが出来るからです。新約聖書でも、「教会はキリストの花嫁」と表現されています。(黙示録21章9節、22章17節)この関係については・・・1、一対一の排他的な関係である、2、愛の結び付きである、3、約束(救いの約束)による結び付きである、4、エペソ人への手紙5章22〜33節にあるように、妻と夫との結び付きには、クリスチャンとキリストとの密接な結び付きの奥義が表わされている 等々色々学ぶことが出来ます。ですから聖書は、自分を救って下さった唯一の神の他に偶像を拝むことを「姦淫」と言って戒めるのです。

※よく、「クリスチャンは排他的でかたくなだ。心を広くして他の神を礼拝することも受け入れたらどうだ。」という声を聞きます。しかしそれは、結婚にたとえれば、「あなたは心を広くしてどの異性ともこだわり無く夫婦関係を持つべきだ」と言っているのと同じことなのです。このことのあやふやさが、 日本における男女関係のルーズさ、浮気・売春観光等の放任につながっている、と私は思っています。

5、偶像を礼拝することは、悪霊と交わることになる。(コリント人への手紙第一10章19〜20節)

 パウロはコリント人への手紙第一8章4〜6節で、唯一の神が存在しているだけで、神々と呼ばれるものは、実は存在していないのだ、と教えています。だから、偶像を拝んでもそれは「無意味」なのです。しかし、無意味だからといって「害」も何もないか、というとそうではありません。聖書は、偶像の背後に、私達が真の神様を礼拝することを妨げて、自分を礼拝させようとしている者がいる、と教えています。それが悪霊・サタンです。つまり偶像礼拝は悪霊礼拝につながる要素を持っている、という点も注意すべきことです。

(2)偶像に対する具体的な態度

1、他宗教の儀式(例えば、仏教の葬式等)に対してどのような態度でのぞむか。

 私達が守るべきことは「偶像礼拝をしない」という1点だけです。

 それ以外のことは、神様の導きを祈りつつ、知恵を用いて、ケースバイケースで最善を求めていけばよいのです。

※基本的な態度に次のようなものがあるでしょう。

1、対決型 〜キリスト教的でないものを「受け入れられない」として、全面的に拒否していく態度。

2、選択受容型(信仰の良心防御型) 〜信仰に反しない部分は受け入れ、反する部分は拒否する。

3、積極的変革型 〜異教の儀式の意味を福音により変革して、キリスト教的に変える方向を求める。

 例えば、クリスマス、イースター、子供祝福式、……元来異教の習慣をキリスト教のものとする。

4、妥協型 〜異教の儀式も受け入れる。

 この中で、私がお勧めしたいのは、状況によって、2たまは3の方法を取ることです。(3の方法が最も好ましいのではないかと考えています。)

 例えば、仏教の葬儀の場合、偶像礼拝をしないという観点から、1、死者を拝むことや、2、お焼香をすることは避けるべきでしょう。(ただ、避け方についても色々あるわけで、1、葬式に行かない、2、焼香の場に出て行かない、3、焼香の場に出て行って黙祷する ………この辺の具体策については、小畑進著「キリスト教慶弔学事典」が役に立ちます。「婚葬編」と「冠祭編」があります。)

 基本的な心構えとして、「私はクリスチャンだから、あれもしません、これも出来ません」というのではなくて、「私はクリスチャンなので、キリスト教的にさせて下さい」という方向の方が建設的です。

 そうしないと、「何だ、クリスチャンは死者を尊ばないのか、悼む気持ちは無いのか」という誤解を受けやすく、あかしになりません。

 例えば、「私はクリスチャンだから、七五三はしません」と言うと、「何だ、子供の健康な成長を願わないのか」ということになりかねません。ですから、「私はクリスチャンだから、教会で本当の七五三をします。本当の神様に子供の成長を感謝し、健康と祝福を祈ります。」という方向にして、記念品や記念写真も、この世の親に負けないような立派な(ただし見栄を張るのではもちろんありません。形式よりも実質勝負です。)あかしを

たてることを考えて行く方がよいと思います。

 また例えば御葬式では、クリスチャンこそ、本当の意味で遺族の慰めを祈り、手の足りない所をお手伝いし、いざという時には頼りになるのだ、ということが示せれば最高でしょう。

 「先祖」や「家」についても、「そんなのは無意味だ」と言ってはいけません(実際、聖書の中で先祖や家は極めて大切な概念です)。むしろ、「私はクリスチャンになって、本当の意味で先祖を尊敬し、家を大切にし、神様によって結ばれた伴侶をますます愛するようになりました」とあかししましょう。

 この他、お焼香をしないクリスチャンは、当然「香典」も出さないわけで、代わりに「御花料」とするなど、「キリスト教的なやり方」が伝統として出来上がっていますので、上記の本などによって、ふだんの内に一通り勉強しておくことが大切です。(「明

日葬式なんですが、どうしたらいいですか」などと慌てて電話してくる「ドロナワ・クリスチャン」が多いのです。)

 もう一つ大切なことは、家族や周囲の方々に、ふだんから「私はクリスチャンなので、お葬式などの時は、私だけキリスト教式のやり方で参加させて頂きたいのです。」と自分の意思を明確に伝えておくことです。ドタンバの慌ただしさの中で、「私はクリスチャンだから……」などと持ち出すと、大抵そういう時人々は殺気立っていますから、「突然何を言い出す!」などと怒りを招き、トラブルのもとです。ふだんから出来るだけ納得しておいてもらい、いざという時の自分の理解者・味方を多くしておきましょう。

2、自分で持っている偶像は、処分する方がよい。

 自分の所有物である仏像や、お守りや、お札等は、クリスチャンになった後まで大切にしておく必要はないでしょう。自分で、このような偶像から開放して本当の救いを与えて下さった(テサロニケ人への手紙第一1章9節)神に感謝して廃棄してもよいですし、牧師に渡して下されば、牧師がふさわしく処分致します。(たたりなど決してありません。偶像は「わざわいも幸いも下せない」ことを先ほど学びました。また主イエスはすでにサタンに勝利をおさめられたのですから。)

 但し、自分の所有物でないものは、たとえ偶像で目障りに思っても、強行手段に訴えて

廃棄するような過激な行動に出るべきではありません。(そうやってご主人を信仰に導いた猛烈奥様もいらっしゃいますが) 偶像は責任者・所有者が処分すべきものと考えます。責任者・所有者が救われるように祈り、努力しましょう。

 また、えてして忘れられがちなことですが、占い、霊媒等も聖書は禁じています。(申命記18章9〜14節)私達には、いつも共にいて下さる主イエス・キリスト(マタイ28章20節)があり、いつも守って下さる神様(詩篇121篇)があり、人生の行く道を教えて下さる神様とそのみことばがあるのです。お守りを下さるなどという方がある時は、このことをあかしして差し上げるよいチャンスです。


〔2〕この世との関わりについて 

(1)基本的な考え方の3ポイント

1、クリスチャンとして妥協出来ないことがある。

  1、偶像を礼拝すること

  2、主イエス・キリストを信ずる信仰を捨てることは出来ません。

  3、福音を伝えることをやめるわけにはゆきません。

 この3点は、誰が何と言っても、たとえ法律で強制されても、「はい、わかりました」と言って従うわけにはゆきません。

 例えば、3について。使徒の働き4章18節で、ユダヤ人議会は使徒達に宣教禁止命令を出します。それに対し使徒達は、「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断して下さい。私達は、自分の見たこと、また聞いたことを、

話さないわけにはいきません。」(使徒4章19〜20節)と答えます。その後の再逮捕の際のやり取りも同じです。(使徒5章27〜29節)(もちろんこれはどこででもやみくもに伝道せよ、ということではありません。)

2、救われた私達は「自由」である。(「キリスト者の自由」は大きい。)

3、その「自由」は「神に従う自由」であり、「神と人とに仕える自由」である。

 主イエスは、「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」(ヨハネ8章32節)と言われました。私達は、罪の奴隷であり、自分の過去に縛られ、いやおうなく滅びに向かって生きていましたが、主イエス・キリストの救いにより、その一切の束縛から開放され、永遠のいのちに生かされているのです。

※多くの人は、自分のやりたい放題やれるのが「自由」だと考えています。しかしそれ

は本当の自由ではありません。実は自分の欲望の奴隷となっているのであり、罪に縛られている状態なのです。その証拠に、正しいことをしたいと思っても、人間にはそれが出来ません。神に従いたいと思っても、従えないのが人間です。神から離れた人間は自由なつもりでも「不自由」なのです。(これを「奴隷意思」とルターは呼びました。) 主イエスが与えて下さる本当の「自由」とは、この私達を束縛する欲望や、自我や、罪や、過去や、コンプレックス、……そのようなものの一切からの自由です。この自由を得て初めて人間は神のみ心にかなったことを願い、そのように生きることが出来るようになるのです。

 救いは律法の行ない(すなわち、良い行ない)によるのではなく、価無しに神の一方的な恵みのゆえに信仰によって与えられるのです。その時私達は開放されて自由になります。私達はその自由を、神のみ心に従って、神と人とに仕えることに用いるのです。

 このことは極めて大切なことですから、聖書のみことばによってよく確認して下さい。

1、コリント人への手紙第一10章23〜24節

 ここでパウロは、「全てのことは、してもよいのです」と驚くべきことを2度も語っています。けれども、「しかし、全てのことが有益とは限りません」「しかし、全てのことが徳を高めるとは限りません」と続けています。

 つまり、クリスチャンは「自由」なのです。けれどもその自由をどうように使うか、ということについては注意深く神様のみ心を受け止めなければなりません。(「それならば不自由ではないか。神に束縛されているのではないか」と言うかも知れませんが、上述のように本当の自由とは、「神に従う自由」「罪を犯さないで生きる自由」「本当の人生を生きる自由」なのです。)ですからパウロは、自由を教えるこの箇所の結論として、「誰でも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心掛けなさい」と述べているのです。その究極的な結論は、コリント人への手紙第一10章31節「何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」です。(コリント人への手紙第一6章12節や、9章19〜23節も参照)

2、使徒の働き15章のいわゆる「エルサレム会議」は、この原理の具体的適用例です。

 この会議のそもそもの議題は「救いの条件は何か」ということです。救われるために割礼も必要だ(1節)という異端に対して、会議が開かれました。

 結論は11節や19節にあるように、異邦人も信仰のみによって救われる(つまり割礼は不要だ)ということでした。ところが、10節で「異邦人に余計なくびきを負わせてはいけない」、19節で「異邦人を悩ませてはいけない」と言いながら、20節では異邦人に対する4つの要求を決定しているではありませんか!

 これは矛盾でしょうか。これを守らなければ救われないということでしょうか。もちろんそうではありません。この会議では二つの原理について二つのことが確認されていることがわかるのです。

1、「救いの原理」については、「信仰のみ」である。何の行ないも要求されてはならない。

2、「自由の原理」(または「交わりの原理」)については、異邦人は4つのことを守るべきである。

 つまり、当時教会の中には、ユダヤ人出身のクリスチャンと異邦人出身のクリスチャンがいました。生れた時から律法を守って育ったユダヤ人は、律法とは縁の無い異邦人と深い交際をしませんでした。ところが今福音によってこの習慣の違う二つのグループが一つのキリスト教会の中に入ったわけです。それを考慮した使徒達は、この会議で「救いの原理」は「信仰のみ」と確認すると同時に、「異邦人は救いについては信仰以外の何ものも要求されない。自由である。しかしだからといって、「私達は自由なんだ。血なんか何とも思わない」と言って、同じ教会内のユダヤ人達が嫌がるようなことを、わざわざやるべきではない。教会内の交わりを保つために、ユダヤ人クリスチャンの心も充分に配慮して、嫌がられることはしない、という方向に自分達の「自由」を用いるべきだ。そう教えたのです。このことが、上述のパウロの教えとピッタリ一致していることをよく味わって下さい。

3、ペテロの手紙第一2章16節

 「あなた方は自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」

 ペテロの教えていることも、全く同じです。

 以上、少し詳しく聖書を見ましたが、この原理の確認が大切なのです。何故なら、これが「この世との関わり」を考える時にも大切な基本になるからです。(実はもっと広く、クリスチャンがいかに行動するかということの基本になる原理なのです。)酒・タバコをどうするか。この世の習慣、儀式は?

 パウロとペテロの言葉をよく確認しておいて下さい。そしてどうか、「こんなのは自由なんだ」と言って、他人や仲間のクリスチャンの心を傷付けないようにして下さい。

※この原理について、ルターは有名な「キリスト者の自由」の中で、次のようにまとめています。

1、キリスト者は全てのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。

2、キリスト者は全てのものに奉仕するしもべであって、何人にも従属する。

 一見矛盾して見えるこの二つの原理をバランスよく味わいましょう。自分に都合良く だけにしてはいけません。

(2)よくぶつかる質問について

1、酒・タバコは?

 自由です。しかも信仰の世界では全く枝葉のことです。しかし私は、やめることをお勧めしています。クリスチャンの世界ではこれを排してきた伝統があり、酒・タバコの害(本人にも、回りの人にも、社会にも)と戦っているクリスチャンの働きもあります。これがある意味でのクリスチャンの旗印となってきた面もあります。ですから、自由ですが、これをルーズにするとあまりあかしにならない面もあり、クリスチャン仲間との「交わりの原理」からもやめることがよいのです。

 酒を飲まないと付き合いが出来ない、という心配をよく聞きますが、そんなことはありません。何故なら、世の中にはクリスチャンでなくても酒の飲めない人は予想外に沢山いて、彼らの多くもちゃんと社会で立派に付き合い・仕事をしているからです。

2、習慣・儀式のたぐい

 習慣・儀式を評価するには、まずその中に宗教的な意味付けや偶像礼拝の要素がどのようにあるかを見なければなりません。そして偶像礼拝の要素は受け入れられません。しかしそれ以外は自由です。その自由を「神の栄光のために」「福音のために」いかに用いるかが私達の課題です。

 例えば、前述の七五三→子供祝福式、成人式→成人祝福式、御彼岸→召天者記念礼拝、

法事→記念会、等はキリスト教会で見られることです。父の日・母の日に親孝行をして、「あなたの父と母を敬え」という聖書の教えをあかしすることも出来るでしょう。

3、未信者との結婚

 これについてはキリスト教会内にも二つの意見があります。許される、という意見と、許されない、という意見です。これを考えるには、幾つかの聖書箇所を注意深く見なければなりませんが、ここではそれは出来ませんので、必要のある方は結婚をテーマにした信仰書をお読み下さい。(牧師にご相談下さい) 

 私なりの結論を簡単に書きますと、・・・

 1、結婚については、未信者との結婚が許されるかどうか、という視点から考えるべきではありません。つまり結婚は抽象論ではなく、具体的に神様のみ心を求めることが大切なのです。自分に神様が与えて下さる伴侶は誰なのか、確信が与えられるまで祈ることです。(神様が結び合わせておられないなら、信者同士の結婚だって駄目なのです。)神様のみ心は何か、私は聖書に従ってどのような結婚生活をするのがよいのか、という所がちゃんとしていないと、上のような質問は無意味です。

 2、このような観点から聖書を学んでいくと、クリスチャンはクリスチャン同士結婚するのが自然であり、当り前であると思います。共通の信仰、同じ主、人生の目的、世界観を持っていることが、神の定めた結婚の目的を二人で目指すためには極めて大切な要素であることは明らかでしょう。

 3、ですから、未信者との結婚を考える状況になったら、結婚を決める前に、牧師と協力して相手に福音を伝え、教会に導くことを考えるべきでしょう。相手が信仰を持つまでは、結婚を決めないという忍耐強さも必要です。

 4、しかしそれでも、聖書の中に未信者との結婚が皆無であるわけでも、明確に禁じられているわけでもありません。ただしやはりそれは例外的なケースであるとは言えるでしょう。ですから、上記のことを全てわきまえた上でなお、「私はこの人(未信者)と結婚することがみ心なのだ」と確信するなら、それを否定出来ないめんはある、と考

えています。

 5、けれどもその際、相手が聖書やキリスト教の基本的な教えを学んで、少なくとも反対していないこと。求道するつもりのあること。二人で結婚カウンセリングを受けること。結婚後二人で礼拝に出席すること。家庭を聖書の教えに従って形成すること。相手も偶像礼拝をしないこと。育児は聖書に従って行なうこと。家庭の冠婚葬祭はキリスト教で行なうこと。位の条件は少なくとも満たされているべきでしょう。

4、自分の死について

 自分が死んだら葬式はどうしてほしいのか(もちろん教会ですることが最善と思いますが)、墓はどうしてほしいのか(教会にも日野公園墓地の御墓が用意されています)、自分の意思を教会にも周囲にも明確にしておくことをお勧め致します。何故なら、生涯をク

リスチャンとして生きても、生涯の終りをクリスチャンとして締め括る(つまりキリスト教式に葬儀をする)ことの出来ないケースが日本では大変に多いからです。

5、町内会・自治会

 行事が主日礼拝とぶつかって困ることがよくあります。日頃から、日曜日は礼拝に行っていることを理解して頂く工夫が大切でしょう。その際、クリスチャンだから協力出来ない、ではなく、日曜日は協力出来なくても他の日のことは積極的に担うとか、皆と一緒でなくても別の時間に務めを果たす、等の工夫をされている方々のやり方に見習いたいと思います。

 もう一つ、町内会・自治会の関わる偶像礼拝の問題がある場合があります。面倒で偏見を受けやすく、なかなか理解して頂けない問題ですが、少なくとも偶像礼拝に自分が荷担しないように気を付けましょう。

6、社会倫理・道徳・生命倫理・環境問題・南北問題・経済倫理、等々の社会問題。

 これらについては、クリスチャンは「世の光・地の塩」として積極的に関わることが出来るはずです。「この世」のことを頭から否定する「聖俗二元論」は聖書的ではありません。全ては神が創造された世界で起きている問題ですから、「聖書に全ての解決がある」はずです。それをこの世に対して提示し、実践していくことが、クリスチャンの社会的責任を担うことであります。

7、その他、仕事・家庭・社会・………自分の置かれた場において。

 私達はこの世に生きていますが、この世のものではありません(ヨハネ8章14〜18節)。私達は「神の国」の民であり(ピリピ3章20節)、一人一人は「神の国」の大使としての使命を担って「この世」に派遣されています(コリント人への手紙第二5章20節)。全てのクリスチャンはその使命を担って献身的に生きるべきです。(それは一人一人違う、神からの「召命」です。ある人にとっては「仕事」であり、ある人にとっては「家庭」でしょう) 献身とは、牧師や伝道師になることだけではありません。ローマ12章1節にあるように、神は全てのクリスチャンに献身を求めておられます。そしてそれぞれの「召命」に価値の差があるわけではありません。 私達の担う「神の国」は、私達の回りに広がっていく力を持っています。(マタイ13章)「神の国」の力・恵み・祝福は私

達が置かれているこの世の場に、私達によってもたらされるのです。それは第一に救いの恵みですが、それだけではありません。仕事が、家庭が、この世の全てが神のみ心に従って変えられていくということもそれに含まれます。ですから、全てのクリスチャンに、この世での人生を積極的に前向きに受け止めて頂きたいのです。この世での生活は、何か「天国へ行くまでの間、やむをえず」過ごしているのではありません。「神の国」をあらゆる場にもたらすという、実に尊い使命を担って私達は生きているのです。そのことを知って、人生を生き生きと生きようではありませんか。

(この7、に簡単に書いたことは、実は大きなテーマですから、更に問題意識を持って学びたい方はお申し出下さい。)  



              

                                               

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 第10課 偶像・この世との関わりについて

1、偶像礼拝をすることは何故いけないことなのでしょうか。

2、私達は他宗教の儀式や偶像に対して、どのような態度でのぞめばよいと思いますか。

3、他宗教の儀式や偶像の問題で、今迷っていたり、困ったりしていることはありますか。または、そのような経験を過去にしたことがありますか。具体的にお書き下さい。

4、この世との関わりを考える上で、基本的な3つのポイントは何ですか。

5、教会において、「私は自由にさせてもらいます。あなたの言うことなんか聞く気はありません。」という態度は正しいでしょうか。何故でしょうか。

6、この世との関わりについて、今迷っていたり、困ったりしていることはありますか。または、そのような経験を過去にしたことがありますか。具体的にお書き下さい。

7、何かわからなかったことや、ご質問がありますか。               

                            お疲れさまでした!


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